そういえば半疑問形?のしゃべりかた?をする人?っていなくなった気がする?

かつて半疑問形というのが流行した時期がありました。

半疑問形とは、文末以外の部分で上げ調子で発声する話し方です。 大学時代、先生が講義中に半疑問形を連発していたのにびっくりしたのは、いい思い出です。

いったいどこが発祥だったのか、話し手にはどんな心理が潜んでいるのか(自分の自信のなさの表れ、とか)、など興味はつきないので折りを見て調べてみたいとは思っていたのですが、ふと気づくとこういう話し方をする人はいなくなっていました。

「笑うときに手をたたく人」というのが、個人的には少し前に気になっていて、「何から始まったのだろう?」と疑問に思っていましたが、だいぶ前に「すイエんサー」が検証していました。

そこでの結論は「テレビの影響」だったと記憶しています。

勝手な想像ですが、半疑問形もテレビの影響で広まり、そしてテレビで下火になると同時に、世間でも消滅していったのではないか。そんな仮説も成り立ちます。

あと、「靴のかかとをわざと床・地面にこすりつけるようにして歩く人」というのもかつてよく見かけましたが(私だけかもしれませんが)、最近はいませんね。

ちなみに、今回の見出しは半疑問形を再現してみたものですが、文字にすると何がなにやら。

綾波レイの「絆だから」というセリフの真意がわかった

〈絆〉といえば、日本漢字能力検定協会が2011年を表わす漢字として発表したもので、なんとなくプラスのイメージを持つ人が多いかと思われます。

しかし、〈絆〉ということばを辞書で引くと(1)馬の脚などをつなぐなわ(2)足かせや手かせ(3)自由を束縛するもの──と記されています。

これを「マイナスのイメージ」とまで断言していいかどうかはさておき、無条件に受け入れていいわけでもないことがわかります。

さて、〈絆〉ということばで個人的に思い浮かべるのが、『エヴァ』に登場する綾波レイのセリフです。

映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の終盤、決戦に向かう直前に、碇シンジと綾波レイがこんなやりとりをするシーンがあります。

シンジ「綾波は何故エヴァに乗るの?」
レイ「…絆だから」
シンジ「絆?」
レイ「そう…絆」
シンジ「父さんとの?」
レイ「─みんなとの」
シンジ「強いんだな…綾波は」
レイ「私には他になにもないもの」

このシーンは旧世紀版から踏襲されているもので、物語の序盤で強く印象に残るシーンです。

綾波の〈絆〉は、日本漢字能力検定協会が言うところの「プラスのイメージ」の〈絆〉でしょう。

しかし、〈絆〉には「マイナスのイメージ」があると知った今、この綾波のセリフも違った意味が出てくるのではないでしょうか。

つまり、綾波にとっては、エヴァに乗ることは「足かせ」であるというのです。

『新劇場版』はまだ未完の物語であるため、ここからは旧世紀版に限定して論を進めます。

旧世紀版『エヴァンゲリオン』は、「碇ゲンドウの“あやつり人形”として行動していた綾波レイが、自我に目覚め、みずからの意思で生きることの大切さを学んでいく物語」と解釈することができます。

自己を確立し、他人との衝突を恐れず、自分で物事を決める──これが『エヴァ』のテーマです。

他人との衝突を恐れるあまり、「自分と他人との境界をなくしてしまおう」というのが、かの有名な〈人類補完計画〉で、『エヴァ』はテレビ版・劇場版を通して、これを否定する物語であるわけです。

これをふまえると、〈絆〉というのは、ある意味で〈人類補完計画〉に通じる概念であり、『エヴァ』においては、否定されるべきことばと考えることができます。

綾波がこのセリフを口にするのは、物語の序盤であり、綾波の自己がまだ確立していない時期である──という点がポイントです。

つまり、『エヴァ』は、「父さん」(=碇ゲンドウ)や「みんな」との〈絆〉(すなわち〈足かせ〉)から、綾波が解放されていく物語であると見ることができるのです。

そう考えると、じつによくできた物語というか、終盤の伏線がこんなところにも張られていたのかと、あらためて驚嘆することしきりです。

先にも触れたように、これはあくまで旧世紀版の話であって、新劇場版も「綾波が自己を確立していく物語」になるかどうかはわかりません。

ただ、旧世紀版と新劇場版とで、根本的な思想は変わっていないはずだという期待を込めるなら、このシーンでの〈絆〉は、新劇場版においても、やはり「マイナスイメージ」の〈絆〉であると解釈するほうが自然な気がするわけです。

【ジョジョ】「根掘り葉掘り」の「葉掘り」ってどういうことだああ〜〜!?

『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部にギアッチョという敵スタンド使いが登場します。 その彼が、慣用句「根掘り葉掘り」の「葉掘り」の部分が納得できずにキレる、という描写がコミックの第54巻に収録されています。

イタリア人のギアッチョさんがなぜ母語でないはずの日本語の表現を気にする? だいたい慣用句に理屈が通じないと怒ってもしょうがないだろ!?

……というようなお答えしか、以前はできなかったのですが、たまたまギアッチョさんに満足いただけそうな記述を見つけたので、今回はそれを引用してみましょう。

この成句の言いたいのは〈徹底的に掘り下げる〉ということであるから、「─掘り」を繰り返す必要があるわけである。そして普通は掘ることをしない「葉」まで「掘る」と言って掘り下げの徹底ぶりを示しているのである。
(中略)似たような成句として「ネコもシャクシも」というのがある。これも“徹底性”を含んでいるが、徹底性を示すにはどうも非日常な表現を持ち込むのが有効なようである。
(国広哲弥『日本語誤用・慣用小辞典〈続〉』講談社現代新書)

ギアッチョさんはこのあと、日本人が「ヴェネツィア」を「ベニス」と英語読みすることにも怒っていますから、かなりの日本通であることがわかります。というより、日本が好きなのでしょう。好きであるがゆえに、気になってしまう。そんなところでしょうか。