憲法は〈国家〉が本来持つ力をわれわれが押さえ込むための“呪縛”

憲法は〈国家権力〉が本来持っている強大な力を非力な私たちが押さえ込むための“拘束具”ということができます。

ひとくちに“拘束具”といっても、いろいろあって、『羊たちの沈黙』のハニバル=レクター博士が着せられているのも拘束具です。 

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ですが、〈憲法〉=〈拘束具〉のイメージにもっとも近いのは、『新世紀エヴァンゲリオン』のそれでしょう。

テレビシリーズ版(旧エヴァ)の第拾九話「男の戦い」では、暴走した初号機が、みずからの力で装甲板を破壊する描写があります。

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しかし、厳密には「装甲板」ではなく、「拘束具」であることが明らかになります。

「あれは装甲板ではないの。エヴァ本来の力を私たちが抑え込むための拘束具なのよ」

エヴァの拘束具は、レクター博士の場合と異なり、多くの人が装甲板と思い込まされていたことからわかるように、エヴァそれ自体をカタチ作っている〈構造体〉でもあります。

憲法は英語でconstitutionといい、「構造」「構成」といった意味になります。つまり、国家をカタチ作るものというわけです。

憲法は、国家の本来持つ力を押さえ込む拘束具であると同時に、国家それ自体をカタチづくる装甲板(構造体)でもあるのです。

さて、今述べたエヴァの概念は、テレビシリーズ(旧エヴァ)のものでした。

では、新劇場版ではどうなっているのでしょうか。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』に、テレビ版「男の戦い」に相当するエピソードがあり、ここでもやはり初号機は暴走するわけですが、「拘束具」という言葉は出てきません。

「ヒトのかけた呪縛を解いて、ヒトを超えた神に近い存在へと変わっていく」

つまり、旧エヴァより、さらに“高度な次元”にまで行ってしまった、と考えることができます。

先日のエントリーで〈国家〉=〈神〉説というのを提唱しましたが、まさに、ヒトのかけた(憲法という)呪縛を解いて、神に近い存在へと変わっていく(ことを望んでいる人がいるようだ)、というわけです。 その行き着く先は、

「世界が終わるのよ」

ということになります。 

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議論が錯綜してきましたので、今回の論旨をまとめましょう。

  • 国家は本来、強大な力を持っている。
  • 憲法は、国家をカタチづくるものであると同時に、国家の力を押さえ込むための“拘束具”(=呪縛)である。
  • その“呪縛” は、下手をすると国家みずからの力で解かれてしまう(暴走してしまう)。
  •  “呪縛”が解かれると、国家は神に近い存在となり、その行き着く先は世界の終わりである。

そして来週は、国家という神につかえる“天使”を選ぶ祭りごと(=「政」)が全国的に行われるということになります。

人は〈国家〉という名の〈神〉を求めているのではないか

近ごろ世間を賑わしている問題は、突き詰めると「〈国家〉と人間の関係性の変化」という議論に帰着します。

ただ、個別の事象をブログで論じることに意味を見出せず、それどころか危険ですらあると考えている今日、ここ述べるのはあくまで抽象論です。

そんな折り、タイトルの「人は〈国家〉という名の〈神〉を求めているのではないか」というのが、近ごろ感じていることのひとつというわけです。

ここでいう〈神〉とは、「全知全能」「われわれの希望を叶えてくれる存在」「完璧な存在」といった意味で、既存の宗教の〈神〉とは別物です。

「国や政治への批判」は巷でよく行われていることですが、これは厳密に言うと、「政治家」「官僚」「経営者」など広義の“権力者”に対するものです。

つまり、対象は〈人〉なのです。

──〈国家〉は〈神〉であるから、間違いを起こすはずがない。もし何らかの不具合があるとすれば、それは〈国家〉ではなく、〈神〉に仕える人(政治家など)に原因があるのだ。

そんな意識が人々の頭の中にあるのではないか。

政治家に対する不信は「〈国家〉という〈神〉に仕える者として相応しくない」という異議申し立てである、と見なすことができます。

しかしながら、当ブログでは、〈国家〉は〈神〉ではない、という立場をとります

〈国家〉が〈神〉であるとしても、しょせんは人が作りしモノであって、全知全能ではない。間違いもあるし、限界もある。

こう考えることで、光明が見えてくるのではないか、と最近は考えているのでした。

人は他人に暴力を振るってよいと潜在意識の中で思っているのか?──映画『CURE』の恐怖

『読売新聞』(2012年5月25日付)によると、駅構内で乗客が駅員や乗務員に対して暴力を振るう事例が年々増加しており、加害者の75%が飲酒をしていたそうです。
「加害者の75%が飲酒」と「飲酒している人の75%が暴力の加害者」を取り違えないよう注意しつつも、しかし、飲酒による暴力が意外に多いことに驚かされます。
自分も酒好きのひとりとして考えるに、お酒を飲んで“よい気分”になることはあっても、他人を傷つけようという思いが湧き上がったり、暴力衝動が惹起されたりする、というのはいまいち理解できません。
そこで思い出されるのが、黒沢清監督のホラー映画『CURE』です。
この映画は、ひとことでいえば、「催眠によって人を操り殺人を起こさせる」という物語です。
劇中でも説明されているとおり、いくら催眠でも「その人の倫理観に反すること」「その人の意に反する行為」をさせることはできません。
ということは、映画の登場人物たちには、「殺人」に対して、なんら精神的ブレーキが働いていない(人を殺してもよいと思っている)ことになり、そこがこの映画の怖いところでもあります。
飲酒によって、多かれ少なかれ精神的な抑制が効かなくなることは事実かと思いますが、「他人に暴力を振るうこと」を厭わないという心理が加害者自身も自覚しないところで働いていると思うと、薄ら寒いものを感じてしまいます。

ゾンビに人権はあるか?[3]──なぜ攻撃ヘリを向かわせた!?

政府高官X「そうは言うけどもね、キミ。レオンくんは立派に結果を残しているではないか」

そうなのです。「大統領の娘を救出する」という当初の目的は達しているのです。そこは私も評価したい。

「プラーガのサンプルを回収する(サドラーから取り戻す)」というほうは、エイダさんのスリットの入ったお召し物に気を取られて奪われてしまいましたが……。

でも、サンプルの件はそもそも政府の命令に入っていないし。

X「だったら何が不満なのかね?」

いや、〈結果よければすべてよし〉というのは、なんだか危険なような……。なんか、村人の家に勝手に入って、鍵のかかったドアを蹴破ったうえに、お金も盗んでいませんでした? これはプライバシーの侵害だし、財産権の侵害だと思うのですが。

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X「でも、そのお金がなければ、商人から武器を調達できず、敵を撃退することもできなかったはずだ」

まあたしかに、盗んだお金で「フィギュアを全シリーズ大人買い♪」ってわけじゃないし……あれ? レオンはフィギャア集めてませんでした?

X「それは、射的ゲームの景品だろう。お金は使っていない」

そうでした、そうでした。ということは、やはり村人たちがプライバシー権、財産権、つまり〈FHR〉(人権)を持つかどうか、ってことに尽きるのかなあ……。

X「ガナードたちが人権を持っていると?」

彼らはアメリカのことを憎んでいるふしがあります。ひょっとすると、サドラーや村長のマインドコントロールかもしれませんけど。そうなると、村人たちが攻撃的なったとしても罪はありませんし、武器の使用は適正であったかは疑問が出てきますよ。

X「しかし身を守るためには、発砲は必要だろう」

そうだとしても、村人が尋常でない相手だとわかった時点で、なぜレオンは助けを求めなかったのでしょう? ひとりで解決できる問題ではなかったのは明らかでしょう?

X「いや、彼は助けは求めた。現に合衆国側はヘリも飛ばしている」

それだ! なぜ軽々しくヘリを向かわせたのです? レオンの武器使用よりもっと罪深いですよ。まさにかの国に宣戦布告をしたに等しいですからね。相手国の兵士にも相当死人が出たでしょう。しかも、ヘリは撃ち落とされましたよね? ソマリアの悲劇(モガディシュの戦闘)を忘れたわけではないでしょう。

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X「映画『ブラック・ホークダウン』でも描かれたあれか……。大丈夫。ヘリのパイロットの家族にはきちんと補償金を出しているし、情報もきちんとおさえた。メディアには流れていない」

そういう問題じゃないんだけどな……。でもどうします? ガナードに〈FHR〉(人権)を認めるのか、人間として扱うのかははっきりさせないと、今後の活動にも支障がでますよ?

X「だが、BOW(生物兵器)への対処はすでにBSAAが行なっている。アメリカが矢面に立つことはないよ」

たしかに。〈ガナード〉を生み出す種である〈プラーガ〉は、すでに世界に拡散し、アメリカ一国では対処できなくなっています。

ゾンビやガナードが〈FHR〉を持つかどうかの問題は、早急に解決しなければいけない事態になっているといえます。

石原都知事が尖閣諸島を購入──地方自治体は〈安全保障〉の主体となりうるか?

東京都知事の石原さんが、尖閣諸島の一部を都が買い上げる意向を表明したことで、物議を醸しているようです。
〈国がやらないから都が一肌脱ぐ〉
その発想はなかった! ……と言いたいところですが、似たようなことは私も考えたことがあります。
たとえば、日本国憲法では、国の交戦権が否定されていますが、〈地方自治体〉の武装は禁じていないのではないか、ということです。
〈地方自治体〉は「民主主義の学校である」と言われています。その長を直接選挙で選ぶわけですから、国会議員から総理大臣を選ぶような“まどろっこしい”方法よりも、民主主義の実現度が高いというわけです。
そう考えると、〈安全保障〉を〈国〉にまかせきりにするのではなく、〈地方自治体〉みずからがやってしまうというのは、ひとつの考え方であります。
「〈国〉をさしおいて〈地方自治体〉のひとつにすぎない〈都〉がでしゃばるな」みたいな言説には注意を払う必要があるでしょう。
となると、東京都が独自の軍隊を持つ──という選択肢もありそうですが、お正月は暇なので「戦争と平和」について考えてみたなどでも述べたとおり、「武力で平和を実現する」ことには無理があります。
また、尖閣諸島の問題に関していえば、地球上で起こっている戦争(紛争)は、その原因を突き詰めると、ことごとく「領土問題」になる、ということを考えると、都が尖閣諸島の一部を購入するのは、意味がないどころか有害となる恐れもあるわけです。

ゾンビに人権はあるか?[2]──レオンは侵略者?

もし仮に、われわれが「ゾンビ」(ガナード)に襲われたとして、自分の身を守るために発砲し、なおかつ相手を死なせてしまった、としたらどうでしょうか。
そもそも銃を持つことが違法かもしれないのですが、そうだとしても〈人権〉(FHR)の問題は生じません。
〈人間〉と〈ゾンビ〉の間には〈FHR〉は成り立たないからです。
では、われわれが警察官だったとしたらどうでしょうか。
警察官は〈国家機関〉の一員ですから、〈FHR〉の問題が生じる可能性があります。
〈警察官〉と〈人間〉の間には〈FHR〉が成り立つからです。
とはいえ、警察官とはいえ生身の人間ですから、正当防衛で武器を使用することは認められるでしょう。
では、『バイオハザード4』のレオンの場合はどうなのでしょうか。
たしかに、「村人が襲ってきた」→「差し迫った生命の危険がある」→「危険を排除するために発砲する」という一連の流れに不適正な点はないように思われます。
ところが、レオンは住人の許可なく勝手に家に入りこんでいます。
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村人からすれば「銃を持ったわけのわからない男が、気づいたら家の中にいて、何やらわめている」。そう思えたとしても不思議ではありません。
つまり、村人のほうこそ「生命の危険」を感じたのかもしれません。だから、武器を手に取り、身を守ろうとしたのでしょう。
そもそもなぜレオンが行方不明者の捜索をしているのでしょうか。
対象がアメリカ大統領の娘である、という大義名分はあります。だから、ここがアメリカ国内であれば、問題は生じません。
しかし、ここは外国なのです。
犯罪が起こった場合、いくら被害者が外国人であろうと、捜査はその国の警察が行なうのが一般的です。
これを〈国家主権〉と言います。
現に、レオンは現地の警察の案内で村にやってきました。
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現地の警察を差し置いて、外国(アメリカ)の捜査官が住宅に侵入、住民に対し発砲し、殺害してしまった。
これが『バイオハザード4』の序盤で起こった出来事です。
著しい〈人権〉侵害であると同時に、〈国家主権〉侵害であるといえます。
──と、ここまで論を展開してきたものの、何か違和感があるのもたしかです。
主人公(=レオン)がとてつもない悪者──というのでは、ゲームをプレイするためのモチベーションが上がりません。上がる人もいるかもしれませんが、罪もない人を殺すのは、いくら虚構とはいえ嫌です。
レオンを救う方法はないのでしょうか。「レオンは正義の味方」。なんとかこの結論を導き出せないのでしょうか。
これを次回以降の課題としたいと思います。

ゾンビに人権はあるか?[1]──『バイオハザード4』から〈真実〉を見つける

〈ゾンビに人権はあるか?〉

──ほとんどの人にとってまさに「どーでもいいこと」だろうと思います。『バイオハザード』ユーザーでさえも、関心を払うことのない問いかけでしょう。

しかしながら、テレビゲームという虚構の世界にも、〈真実〉や〈理(ことわり)〉が含まれている場合があります。それは、このブログでもしばしば取り上げてきたとおりです。

今年は、「バイオの年」でもありますので、そこにちゃっかり便乗していきたいとも思うわけです。

前回の【声優学入門】でも取り上げた『バイオハザード4』ですが、ここに〈真実〉は含まれていないでしょうか。

老若男女がプレイし、世界中で親しまれているゲームですから、一見すると気づかないけども、重要な〈何か〉が隠されているはずです。

というわけで、まずはゲーム序盤の展開から検証していきましょう。

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【戦争と平和】『バトル・ロワイアル』を見ながら〈集団安全保障〉を考える

最近の注目の話題といえば、北朝鮮とミサイルの問題でしょうか。

まさに〈戦争と平和〉に関わる重大事だけに、このブログの守備範囲といえます。

しかし、〈戦争と平和〉の問題を論じる際には、〈死刑〉と同様に、あらかじめ〈モノを考える枠組〉を作っておく必要があります。

そうしないと、「ミサイルが飛んできたら撃ち落とせばよい」などといった〈理念〉も〈実効性〉もない方法しか提案できないことになります。

実際、多くの人がこの問題をどう捉えたらよいかわからないというのが現状ではないでしょうか。

そこで今回は、“ミサイル問題”を考えるための〈枠組〉づくりに挑戦してみたいと思います。

ただし、今回は〈枠組〉のためのきっかけを作るだけで、問題の具体的な解決策を提示する余裕はありません。あくまで、〈理念〉を構築するためのとっかかりを見つける作業に励むだけです。

では、始めましょう。

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【死刑】殺人をさせてはならない──〈三角頭〉論と〈国家機能限界説〉

ここ1週間ほど、大きな回り道をしながら、〈死刑〉について考えてきました。

〈死刑肯定論〉として提案した〈三角頭〉論(〈インクイジター〉論)の内容を簡単にまとめると、

  • 刑を科すのは自分自身である。
  • 自分が自分を裁くなら公平である。

というものでした。

ここで、〈国家〉とは何か? 〈人〉とは? などといった原点に帰り、あらためて〈三角頭〉論をとらえ直してみましょう。

そもそも〈人〉はなぜ〈国家〉を作るのか?

それはみずからの〈利益〉を守るため。

すなわち、〈人〉はみずからの〈利益〉を守るために、お互いに〈契約〉を交わし、〈法〉を定め〈国家〉を作った。

そして、この〈法〉を侵したものに〈刑罰〉を科すことで〈利益〉を守る。

つまり、あくまで〈刑罰〉を科しているのは、〈自分〉であるということになります。

では、どのような〈刑罰〉を科すべきなのか。

この問いは、どうすれば〈罪〉に報いることになるのか、と言い換えてもいいかもしれません。

たとえば、〈殺人〉という〈罪〉を犯してしまったとき、どうすればその〈罪〉に報いることになるのか。

ひとつの考え方としては、死をもって報いる方法。この場合、あくまでも「殺す」のも「殺される」のも、みずからがあらかじめ〈契約〉でとりきめていたことであり、問題はない──ように思われます。

ただし、これは「死刑を科しても問題ない」という消極的肯定であり、「なぜ殺されなければならないのか?」という問いには積極的には答えていません。

別の言いかたをすれば、「殺される」ことが〈罪〉に報いることになるのかどうかという問いには答えていません。

「答えていない」から「死刑に反対」という主張はいちおう成り立ちますが、これも消極的否定というべきものでしょう。

では、このブログの提唱している〈国家機能限界説〉とは、どういうものなのでしょうか。

ここで、冒頭の「〈人〉はみずからの〈利益〉を守るために、お互いに〈契約〉を交わし、〈法〉を定め〈国家〉を作った」という〈国家〉の成り立ちに戻ります。

ここで作られた〈国家〉というものは、目で見たり手で触れることができないバーチャルな存在です。

〈人〉の五感で感じることはできないけれども、「存在していることにする」というお互いの〈契約〉のもとに「存在」しているのが、〈国家〉の本質であるといえます。

では、この観点から〈死刑〉をとらえるとどうなるか。

本当は存在していない〈国家〉が、〈死刑〉を科すことはできるのか。

答えは「できない」。なぜならば、〈国家〉は本当は「存在していない」から。

しかし、現実には〈死刑〉は行なわれている。

なぜか。

それは、〈国家〉ではなく〈人〉が〈死刑〉を執行しているから。

端的に言えば、〈人〉が殺しているから。

これが〈死刑〉の本質です。

では、その観点から〈三角頭〉論を考えるとどうなるか。

〈三角頭〉は、みずからの罪悪感が生み出したものですが、実体を持った〈存在〉です。

実際に〈刑罰〉を科す能力を持っています。だから、〈三角頭〉は殺そうとする。しかし、〈三角頭〉は〈人〉ではない。

言うまでもなく、〈三角頭〉はゲームという虚構のキャラクターだから「存在」できるわけです。

しかし、現実世界では、〈死刑〉は〈人〉の手を使って行なわなければならない。

具体的には、裁判官や裁判員、刑務官が〈殺人〉を行なわなければならない。

もちろん、彼ら彼女らに〈殺人〉をさせているのは、〈自分〉すなわちこのブログを書き読んでいる我々そのものです。

これを是とするのか、否とするか。

〈死刑〉の是非は、この命題に収斂するのではないか、とこのブログでは考えます。

そして、〈国家機能限界説〉とは、「〈国家〉が実際に〈殺人〉をすることはできない。〈死刑〉とは〈人〉が〈殺人〉を行なうことである。そのような残虐、非道、不条理を〈人〉にさせてはならない」と考える理論ということになります。

〈死刑反対論〉を主張する際、冤罪の可能性や憲法違反、世界潮流(国連決議やEU加盟条件)などがうたわれることがあります。

これらは、もちろん考慮すべき問題であると考えますが、このブログが提唱する〈国家機能限界説〉はこれらを論拠にしていません。あくまで「〈人〉に殺人をさせてはならない」ということのみを主張する一点突破型の理論なのです。

〈人〉とは何か? 〈国家〉をどう作るか? 〈人権〉(FHR)とは? といった問題と、〈国家機能限界説〉をどう結びつけていくかが今後の考察テーマとなります。

【死刑】自分が裁けば公平──『宇宙船レッド・ドワーフ号』

このブログでは、死刑反対の立場から、死刑を肯定する根拠を探っています。 その論理のひとつとして〈三角頭〉論というものを提案しました。 〈三角頭〉論は、ひとことで言えば、「裁くのは自分でなければならない」「自分が裁くなら正当化される」という考え方です。

これについてもう少し深く考察するために、今回はイギリス国営放送BBCのテレビドラマ『宇宙船レッド・ドワーフ号』を取り上げてみましょう。

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