当ブログでは、よけいな感情を捨て、理性的・観念的に〈死刑〉を考えるための手段として、〈三角頭論〉というのものを提唱しています。
この理論をひとことでいうと、
刑を科すのは自分自身である
ということです。
ここまでは前回までに述べてきたので、今回はもう一歩進んで考えてみます。
(ここからはゲームのネタバレが含まれます)
〈三角頭〉は、巨大な鉈のような武器を手にし、主人公を攻撃してきます。当たりどころが悪ければ、即ゲームオーバーになってしまいます。
〈三角頭〉は主人公の犯した罪を罰すために生み出された存在で、その外見やふるまいから、〈死刑執行人〉をイメージさせます。
ただ、ここで立ち止まって考えると、奇妙なことに気がつきます。
【主人公の死=ゲームオーバー=死刑の執行】という図式が成り立つわけですが、死刑が執行されるとゲームオーバーになるということは、物語はそこで中断してしまうということです。
つまり、死刑の執行は本来の物語の流れではない、ということになります。
なぜ、死刑が執行されると、ゲームオーバーになってしまうのか。
逆にいえば、死刑が執行されず(主人公が死なず)、そのまま物語が進むとどうなるのか。
ゲームの終盤、主人公は〈三角頭〉と戦うことになります。うまく撃退できれば、〈三角頭〉は以後、登場しなくなります。
それまで無敵だった〈三角頭〉を倒せるようになるのはなぜか。
それは、主人公がみずからの罪を自覚したからです。それによって、罰する主体である〈三角頭〉という存在が不要になるのです。
このゲームでは「罪を自覚すること」=「罪に報いること」であって、「殺されること」=「罪に報いること」ではないわけです。
これまで当ブログでは、〈三角頭論〉=〈死刑肯定論〉として扱ってきましたが、この認識を改める必要があるかもしれません。
依然として、〈三角頭論〉=〈贖罪の方法論〉ではあるので、引き続き〈三角頭論〉の考察を続けていきます。
▲PS2版『サイレントヒル2』のパッケージがリバーシブルになっていることは意外に知られていない。裏面に〈三角頭〉が描かれている。
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