光市母子殺人事件で死刑判決──〈国家機能限界説〉と『サイレントヒル2』から死刑を考える

山口県光市で1999年に起きた殺人事件について、2月21日に死刑判決が下されました。

このような報道を目にし、耳にするたびに、心が痛みます。

なぜ、心が痛むのか、その原因を考えると、死刑判決の出されるような事件は凄惨であることがひとつ。

もうひとつは、死刑という名の〈殺人〉が“正当に”行なわれることに対する違和感です。

しかし、心を痛めているだけ、違和感を覚えているだけで済ませるわけにはいきません。

コトは、〈国家〉という社会システムのありかた、ひいては私たちの生きかたに関わるのですから。

●ものごとを考えるための枠組を作る

さて、このブログでは、社会問題を扱う際に注意している点があります。

【その1 理論は一貫していなければならない】

社会システムは、その社会で暮らす人々に対して、公正かつ平等に機能しなければなりません。なんらかの恣意や悪意にもとづいて、一貫性のない運用を行なえば、正常には働かなくなってしまいます。

ですから、その社会システムのありかたを考える理論も一貫している必要があります。

【その2 社会システムは人間の〈理性〉で動かさなければならない】

個人的な嫉妬、嫉み、恨み、不満をそのまま社会システムに反映させることは、われわれの〈幸福実現〉という本来の目的を達成することができないばかりか、われわれを不幸にする存在に成り果ててしまいます。

【その3 社会システムは進化しなければならない】

社会システムは、過去より現在、現在より未来へとカタチを変え、われわれの〈幸福実現〉という目的に合致するようにしなければなりません。

以上は、死刑に限らず、国家のありかた、社会システムのカタチを考える際に、つねに念頭に置いておきたい点です。

このような「ものごとを考えるための枠組」を持たずに社会問題を考察すると、結局は「今後の議論が待たれる」というような一見するともっともらしい、しかし実は“思考停止”に陥っているだけ、という事態を招く恐れがあります。

個別のテーマの考察の前に、この「枠組」を自分の中に作っておくことが重要です。

●死刑を考える際に注意したい点

以上は、社会問題全般を考える際に留意しておきたい点でしたが、「死刑」を扱う際に特有の注意点もあります。

【その4 失われた生命は二度と戻らない】

たとえば、〈加害者〉の生命を取り出し、殺された〈被害者〉に注入することで生き返らせることができる、というSF的な世界があったとします。このような仕組みが成り立つ世界であれば、死刑のありかたというのもまた違ったものになるでしょう。

時計の針を元に戻せないと同様に、どのような手段をもってしても、一度失われた生命を取り戻すことはできません。しごく当たり前のことなのですが、次の点と合わせて考えると、この真理の重要性が理解できます。

【その5 〈加害者〉と〈被害者〉との間で〈人権〉の交換はできない】

人間と〈国家〉の関係を考える際、〈人権〉(このブログではFHRと言っています。その理由はこちらを参照)という概念を用いることは重要ですが、使い方には注意を要します。

〈FHR〉は、〈国家〉対〈被害者〉、〈国家〉対〈加害者〉という言わば“垂直関係”でしか成立せず、〈加害者〉対〈被害者〉という“水平関係”でとらえることはできません。

つまり、〈加害者〉から〈FHR〉の一部または全部を取り除き、〈被害者〉に付与するということはできないのです。

死刑の場合、あくまで〈国家〉対〈加害者〉の関係でとらえる必要があります。

〈国家〉対〈被害者〉(もしくはその家族)の関係、たとえば「家族を殺されてしまった人に〈国家〉が何をなすべきか」という問題は、死刑とは別の課題として解決しなければなりません。

●〈国家機能限界説〉とは?

冒頭で「死刑という名の〈殺人〉が行なわれることに対する違和感」があると述べました。

死刑は、死刑判決を出すことによって、〈加害者〉の生命が自動的に“天に召される”わけではなく、そこに〈国家〉による〈殺人〉という行為が行なわれます。

しかも〈国家〉といっても、これはバーチャルな存在ですから、直接的に〈人間〉の手が介在することになります。

死刑にまとわりつく違和感は、〈殺人〉の持つ残虐性、野蛮性、後進性、不条理を、人間が〈理性〉で造り出したはずの〈国家システム〉に付与することに対する嫌悪感と言い換えてもいいでしょう。

〈国家システム〉は、〈FHR〉を尊重するために存在します。

〈FHR〉は人間の誰もが持っているもので、〈国家システム〉によって奪い取ることはできません。

〈FHR〉は〈国家システム〉よりも優先的な位置にある価値と言えます。

だから、〈国家システム〉は、最上の〈FHR〉である「生命」を奪う機能は持っていない(そのような権限を持たせるべきではない)。

これが当ブログの採用する〈国家機能限界説〉で、死刑に反対する根拠となります。

●〈国家機能限界説〉の弱点とは?

〈国家機能限界説〉には、以下のように、理論として弱いところがあり、これを強化することが今後の課題となります。

【弱点その1 ほかの刑罰との関係】

先ほど「〈FHR〉は〈国家システム〉よりも優先的な位置にある価値」と述べました。

生命は〈FHR〉のひとつですが、そのほか個人の自由や財産も〈FHR〉に含まれます。

自由や財産も〈FHR〉であるならば、〈国家システム〉よりも優先すべき価値といえます。

したがって、そのほかの刑罰である自由刑(懲役など)や財産刑(罰金)も、〈FHR〉の侵害(人権侵害)となります。

となると、そもそも犯罪者に対し「刑罰」を課すということ自体ができなくなるのではないか。

──というのが、〈国家機能限界説〉に対する批判です。

これに応える現時点での理論は、

 【〈FHR〉の中にも優先順序がある】

ということです。

つまり、生命という〈FHR〉は、自由や財産より優位に立ち、刑事政策上などの理由で、自由や財産を制限することは可能だが、生命を奪取することはできない、と考えます。

生命は、自由・財産とは一線を画すというわけです。

【弱点その2 〈国家システム〉と〈個人〉の意思】

〈国家システム〉は、そこで暮らす人々の同意に基づいて造られています。

ということは、〈死刑〉もまた人々の同意によって運用されているはずです。

「人を殺したものは〈死刑〉という罰を受ける」という同意があると見なせるわけです。

これに応えるためのしっかりと理論は構築中ですが、ヒントはやはり

 【生命という〈FHR〉は、〈国家システム〉に優先する】

という部分にある気がします。

●死刑と『サイレントヒル2』

ここからは蛇足になりますが、この「〈国家システム〉と〈個人〉の意思」で思い出したのが、PlayStation2のホラーゲーム『サイレントヒル2』です。

3年前に死んだはずの妻から手紙を受け取った主人公が、彼女の姿を求めて「サイレントヒル」を訪れるという話です。

そこは異形の怪物が跋扈する恐ろしい街でした。

とくに主人公の前に立ちはだかる強敵として登場するのが、「三角頭」(レッド・ピラミッド・シング)と呼ばれるキャラクターです(画像)。

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主人公の攻撃はまったく受け付けず倒すことは不可能です。

ゲームを進めていくと、この「三角頭」が何者であったかが明らかになります。

※以下、このゲームの核心に触れますので、現在このゲームをプレイ中の方、これからプレイする予定のある方はご注意ください。

「サイレントヒル」は、〈殺人〉という罪を犯した者が集まり、手痛い罰を受けるための場所であることが物語の終盤に明らかになります。

主人公の妻は不治の病に犯されており、その苦しみから解放させるために、命を奪ってしまっていました。

そして「三角頭」は、その罪の意識に苛む主人公が、自らを罰するために生み出した“処刑人”だったのです。

先に述べたように、〈国家〉が人に刑罰を課すことができる根拠は、〈国家システム〉とわれわれの意思が一致していることです。

そして、「死刑を科す」ことも理論上はわれわれの同意に基づいています。

〈殺人〉という罪を自分が犯してしまったときに、それを償う手段として「死刑」を利用する(そのためにこの制度を残しておく)ことも許される──という考え方も成り立つわけです[注]

[注]この考え方は、生命倫理学者・加藤尚武氏の著作に書かれていたものですが、私の持っている書物の中にその記述が見つからず、ほんとうに加藤氏の考えだったかは未確認です。

「自らを罰する手段としての〈死刑〉」という考え方は、〈国家機能限界説〉で否定できると考えていますが、十分に迎撃するほど反撃力は高くないというのも正直なところです。

いうまでもなく、死刑はあまりに大きすぎるテーマです。

かといって、この問題から目をそらすことは許されません。

死刑は、絵に描いたような〈FHR〉の課題であり、当ブログでは、もちろん今後も考察を続けていきます。

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