『ドッグヴィル』(映画)──“人間の本質”を炙り出す表現形式

だだっ広いスタジオの床に道や建物の境界を表す線がひかれている。少しばかりの小道具として椅子や机、ピアノなどが置かれている。この映画の3時間という長い物語が展開するのはそんな場所だ。実に珍しい趣向のこの作品、当初は、劇場で演劇を観るようなものかなと思ったが、映画である以上、フレームや編集という要素が入ってくるので、小説の挿し絵といった方が感覚的に近いかもしれない。このような表現形式を選択した制作者の意図は知らない。しかし、“人間の本質”を炙り出すという点においては、絶大な効果を上げている。余計な情報は一切目に入ってこず(見ようにもそこには何もないのだから)、表現されるべきものが最大限抽象化されているからだ。結果的にそうなったのか、それとも最初から計算していたのか。後者だとしたら、世の中にはとんでもないことを考える人がいるものだと、ただただ感服するしかない。
dogville.jpg

【ドッグヴィル】監督:ラース=フォン=トリアー/ 出演: ニコール=キッドマン・ポール=ベタニー・クロエ=セヴィニー

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


こちらの記事もどうぞ

  1. 石持浅海『扉は閉ざされたまま』──絵に描いたようなミステリーだからこそ盤石

  2. お正月は暇なので「戦争と平和」について考えてみた──3日目:小林泰三「C 市」

  3. 『レベルE』──見た目は違和感があったがストーリーの面白さがそれを打ち消してくれた

  4. Aimer『Sleepless Nights』──とてつもなく切なくて、とてつもなく愛おしい

  5. 『もしドラ』のあとに真反対の『カイジ』を観るという幸せ

TOP