むかし書いた「阪神大震災 ボランティア報告」をアップしてみた(1)

1995年の2月9日から16日までの約1週間、私は阪神大震災のボランティアに参加し、そのときの体験談を自分のミニコミ誌に書きました。今回はその原稿をアップしてみます。何かの参考にしていただければ。

「私たちの持っている制度や構造がほとんど機能しなかった時に」「誰もが予想しなかったほどの数の人が被災地に出かけていった」ことは「大震災という圧倒的に『悪いニュース』のなかで」「ほとんど唯一の救いともいえる『良いニュース』であった」(筑紫哲也氏)。では、その活動はどんなものであったのか。2回にわたって報告する。

神戸の空模様は快晴、風もほとんどない。それが地上の建物の様相とは対照的だ。

大地震から1ヶ月以上たっているが、もちろんほとんどの建物は壊れたままあるいは壊れかかったままだ。しかし、ここには生活のにおいがある。生活の音がある。ここが廃虚の街ではなく、人々が今まで暮らしてきた、そしてこれからも生活していく街であることを感じさせてくれる。

中央区役所へ

中央区ボランティアの本部は中央区役所の建物の中にあるが、いわゆる行政府としての「区」とは何の関係もなく、地震のあと、どこからともなく人が集まり、いつの間にか区役所の一室を占領するほどの大規模なボランティア部隊となったのである。

本部には大きなテレビが置いてあり、ニュースやワイドショーを一日中流している。コーヒーやお茶も用意してあり、また弁当やパンなども好きなときに好きなだけ口にしてよいという。この食べ物だけが目的で仕事もせずこの部屋に居座っていた輩もいたらしい。飲み物を注ぐのは紙コップである。水道が使えず食器が洗えないからだ。

ボランティアについての説明もここのリーダーらしき女性から受ける。「被災者の人はソマリアやザイールの難民ではありません。われわれと同じ日本人なのです。『ボランティアをしてあげる』というのではなく『させていただいている』という意識をもって活動にのぞんでください」とのこと。(そうすると、ソマリアの人には「してあげる」という態度でよいのか、ということになるのではと思ったが、それは別問題としておこう。)

[お仕事1]広報紙の配達

一番最初の仕事は、市が発行している広報紙やボランティアが作成した新聞の配達である。

各地区を2人1組のチームでまわる。電車などの交通機関は使えないし、車も神戸市内の道路は大渋滞なので使い物にならない。そこで移動手段はもっぱら自転車ということになる。区役所の所有する自転車は、なぜかどれもブレーキがきかないという“特別仕様”になっていて、歩道が地震のためめちゃくちゃになっており車道を通らざるをえない状況ではたいへん危険だ。

私のチームがまわった避難所は13ヶ所(うち3ヶ所は街頭の掲示板)である。思い出す限り列挙してみよう。

YMCAの建物・いこいの家・老人福祉センター・二宮小学校・神戸女子短大(行吉学園)・光の丘幼稚園・東極寺・入江ビル・神田電子専門学校

小学校・幼稚園といった公共施設が避難所になっているのはわかる。お寺や福祉センターも許そう。でも、ただの雑居ビルのようなところまでもが避難所になっているのは意外だ。(上の例でいえば、「YMCAの建物」などばそう。ここは一階の駐車場(倉庫?)が避難所になっていた。)

広報紙を渡すだけでなく、必要な物資、その他の要望なども同時に聞いてまわる。「お皿がほしい」「洗濯機があれば」「トイレを直して」といった要求が出るところもあったが、ほとんどの避難所では物は足りているという。もちろん、充分ということはないだろうが、とくに困るほどではないようだ。

私の活動した2月中旬というのはボランティアが一番多かった時期らしく、たとえば中央区のボランティアでも人手があまって遊んでいる人も出てしまったらしい。地震直後とはちがって、今はかなり行き届いているといったところだろう。ただ、“御用聞き”はボランティアだけでなく区役所や民間の企業もそれぞれが独自に行っているため、同じ要望を何回も言うわりには、なかなか実現しないという不満が避難所の人から出た。

[お仕事2]物資の配給

2番目の仕事が、区役所の前での物資の配給である。

区役所の前は、JR代替バスの停留所があり、人がかなり並んでいるため、厳密には配給そのものは建物の横で行う。倉庫からパンやオニギリを運んできて、机の上に並べる。

一緒に仕事をするのは、区職員のおじさんとボランティア5〜6名。「オニギリ持っていってくださいよ」と道行く人に声をかける。

私は今日初めてだからよくわからないが、この「配給」は毎日だいたい決まった時刻に行なっているらしい。袋を持参してくる人が多い。「何人家族ですか」と尋ねて、家族の人数分を渡すのである。受けとりに来るのは主におばさんである。正確な数はわからないが、何百食とあったオニギリとパンが30分もしないうちになくなってしまった。

[お仕事3]物資の積み下ろし

さて、次のお仕事である。

「力のある人で手のあいている人はちょっと来て」という招集がかけられた。「力がある人」というところに私が入るのか疑問だが、えいっ、いってしまえ。

まずは「生田文化会館」というところへ向かう。例によって自転車である。やっぱりこれも“特別仕様”。区役所にはまともな自転車はないらしい。今回は男ばかり10人ぐらいの自転車の部隊で走る。ただでさえ車が行き交う中をとばす。危ない。ボランティアやってて事故にあったりしたら、シャレにならんだろうなぁ。

「生田文化会館」までは区役所から10分ぐらいである。救援物資(衣類)がここに届けられており、それをトラックに積みこむ。衣類といっても、段ボール箱いっぱいに詰めればかなりの重量になる。なるほど「力のある人」か……。これはたしかに重労働だ。これを賃金に換算すれば結構いいお金になるのかもしれない。

トラックがいっぱいになってしまったので、いったんトラックは物資の届け先の「湊小学校」に向かう。部隊はふた手に分かれる。「湊小学校」まで行ってそのトラックから物資を下ろす組と、ここに残りトラックが戻ってから物資の残りを積みこむ組。私は前者に加わった。

「湊小学校」があるところは、埋立・開発が行われてから年数がたっていないためなのか、まわりの道路や建物がきれいだ。被害も少ない。さらに、海の近くということもあってか、環境も実によろしい。

前に述べたように、神戸の道路は大渋滞であり、自転車の方がトラックよりはるかに速く着く。トラックが到着するまでもうしばらくかかりそうなので、部隊の同僚たちと話をする。

この部隊の隊長のAくんは、大阪の堺市在住。地震直後に中央区の個人ボランティアに人が集まりだした頃からいるらしい。すなわちもう1ヶ月近くボランティアをしていることになるが、家にはすぐに帰れるので、休養のために少し帰宅してはまたボランティアをするということをくりかえしているとのこと。

この中央区の個人ボランティアというのは、たとえば区が率先して作ったものではなく、全国からやってきた個人が集まってできたものであり、したがっていわゆるリーダーのようなものは存在しない。しかしながら、何週間もボランティアをやっている人と、昨日今日始めた人とでは、仕事の理解度というのは異なってくるし、おのずから「広報の担当者」「救援物資の担当者」というのは出てきてしまう。Aくんもこの仕事のベテランというわけだ。いちおう今のところはそれで何とかうまくいっているが、たとえば芦屋市などではボランティアの秩序がめちゃくちゃになっているという話も聞く。

Aくんの話では、地震のとき大阪もやはりかなり揺れたらしい。関西に住んでいる人は地震そのものを体験したことがないという。関東に住む人ならご存知かと思うが、地震などというのはまさに日常茶飯事であり、ちょっとやそっとでは驚いたりはしない。震度2では気にもせず、震度3だと「あっ、地震だ」、震度4「ちょっと大きいかな」といったところだろう。もちろん、今回のような規模のものが来れば関東の人間でもびびるだろうが、関西に珍しく地震が来たと思ったら今回のような大地震。「とにかく360度全方向にぐるぐるまわった」とAくんはいう。「東京じゃ、1ミリも揺れなかった」と私は言ったが、あとで聞いたところでは、東京でもやっぱりちょっとは揺れたらしい。私が鈍感なだけか……。(でも、そのときは寝ていたのだからしょうがない。)

また、Aくんの知り合いのおばあさんは、地震の直後に間髪容れずホテルに電話して部屋を予約し、さっさと自宅から脱出してしまったという。すごいばあさんもいるものだ。

Bくんは今年高校卒業で、今は大学受験が終わり合格発表待ちだという。その間の暇な時間を利用してボランティアをしているというわけ。

ボランティアをしているのは、やはり暇な大学生・高校生が多いが、社会人の人も中にはいた。もちろん長期間はできず2〜3日の活動だが、少しでも何かお役に立ちたいという。

ボランティアをやっていると、外部からの情報というのはほとんど入ってこない。区役所の本部にはテレビが置いてあるが、仕事中は見られないのであまり意味がない。だから例えば東京で何が起こっているのかということも全くわからない。「救援物資が近頃とどかないなぁと思っていたら、東京も地震でつぶれてた……なんてね」などという冗談も出た。

そうこうしているうちに、トラックが到着。校庭の片隅にシートを敷きそこに物資を下ろす。校庭にはその他にも救援物資が積んである。トラックは残りの救援物資を取りに「生田文化会館」へ戻る。また時間をもてあます。そろそろ日が暮れてきた。そこへ避難所のリーダーのおじさんがやって来る。

おじさんの話では、ここ「湊小学校」に避難している約400人とまわりの住人に救援物資を配っているという。「湊小学校」の隣には大きなマンションが建っているが、みかけからはどこも壊れていないようなので、生活できる状態ではあるのだろう。

400人のところへ、例えば救援物資が100しか届かない状況のときに配給を始めると、取り合いになってパニックになるので、公平に分けられるようになるまでここに貯めておくのだという。今日持ってきた分ではまだまだ足りないようだ。とくに男性用の衣類が不足しているらしい。

今日の仕事はもうすぐ終わりだが、今日一日だけでもいろんな経験をすることができた。ここで「だから楽しかった」という感想を持つのは被災者の人に失礼なのかもしれない。しかし「ボランティアとはどうあるべきか」となると軽々しく論じられる問題ではないが、私は「楽しかった」でよいと思う。妙な正義感にかられて「被災者の人たちのためにボランティアをしているのだ!」という意識が強くなりすぎてもマズイことになりかねないのではないか。

たとえばある地域では、ボランティア団体どうしのナワバリ争いのようなものも生じているという。中央区ボランティアの女性の言葉にあったように「ボランティアをさせていただいている」という意識が大事であろう。「結局は自分のためになるのだ」という視点を持つことが大切なのだ。もちろん、それによって被災者の人たちの迷惑になっては問題だが、今回の活動に限っていえば、ささやかながら神戸復興のお手伝いができたのだから、内心がどうだろうと関係ないだろう。

中央区役所に戻るころには、あたりはすっかり暗くなっていた。勤め先からかえって来る人などで街はごったがえしている。とくにJR代替バスの停留所には長い行列ができている。

街の建物はことごとく破壊されたが、人々の生活は続いている。通勤する人もいるし、学校へ行く女子高生もいるし、恋人だって街を歩いている。神戸は廃虚になって死んでしまったのではなく、今も生きている街なのだ。(つづく)
(1995年7月29日)

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