近ごろ世間を賑わしている問題は、突き詰めると「〈国家〉と人間の関係性の変化」という議論に帰着します。
ただ、個別の事象をブログで論じることに意味を見出せず、それどころか危険ですらあると考えている今日、ここ述べるのはあくまで抽象論です。
そんな折り、タイトルの「人は〈国家〉という名の〈神〉を求めているのではないか」というのが、近ごろ感じていることのひとつというわけです。
ここでいう〈神〉とは、「全知全能」「われわれの希望を叶えてくれる存在」「完璧な存在」といった意味で、既存の宗教の〈神〉とは別物です。
「国や政治への批判」は巷でよく行われていることですが、これは厳密に言うと、「政治家」「官僚」「経営者」など広義の“権力者”に対するものです。
つまり、対象は〈人〉なのです。
──〈国家〉は〈神〉であるから、間違いを起こすはずがない。もし何らかの不具合があるとすれば、それは〈国家〉ではなく、〈神〉に仕える人(政治家など)に原因があるのだ。
そんな意識が人々の頭の中にあるのではないか。
政治家に対する不信は「〈国家〉という〈神〉に仕える者として相応しくない」という異議申し立てである、と見なすことができます。
しかしながら、当ブログでは、〈国家〉は〈神〉ではない、という立場をとります
〈国家〉が〈神〉であるとしても、しょせんは人が作りしモノであって、全知全能ではない。間違いもあるし、限界もある。
こう考えることで、光明が見えてくるのではないか、と最近は考えているのでした。
確かにその通り。
もっと言えば社会や経済が安定・上昇
期だったら国家なんかどうでもいいとなるが、社会不安増大、経済不況の現在においては国家にすがる思いでいつの間にか神格化してるんでしょうね。
ただ、「〈国家〉は〈神〉であるから~」の
件は賛同しかねます。そこまで純化して考えてないと思いますよ。
たまたま農園さん。
毎度どうもです。
新しい「国家観」を構築したいのですが、そこまで根本までさかのぼって論じている例がないんですよね。
で、今注目しているのが「国家=プラットフォーム論」で、これから勉強してみたいと思います。