1972年に起こった連合赤軍同志リンチ殺人事件を題材にした映画。単純に言えば、『突入せよ!「あさま山荘」事件』(原田眞人監督)の前の物語を、警察の側からではなく彼らの側から描いている。と、「単純に言えば」そうなるのだが、この映画の登場人物は、「連合赤軍同志リンチ殺人事件を題材にした映画」を撮っている監督や役者なのである。虚構が二重構造になっているわけだ。したがって、「総括」と称して行われる殺人のシーンのあと、死んだはずの人物がケロッとした様子で笑っていたりする。だから、「リンチ殺人事件」という言葉から連想されるような陰惨な雰囲気は意外に漂っていない。
では、事件を真正面から見据えず、あえて虚構内虚構という形式を選択した制作者の意図とは何か。おそらく、事件に関わった30年前の若者と、「映画」に主演している現代の若者との同化、ということだろう。主人公たちが出演している「映画」の中のシーン(昔)も、撮影現場のシーン(今)も、画面上ではどちらも時代がかった色あせた画質になっており、いま観ているのがどちらの時代なのか区別がつきにくくなっている。
事件の当事者たちの心情を客観化することで本質に迫ろう(観客に迫ってもらおう)という狙いだということはわかる。ただ、その狙いがうまくいっているかどうか。事件の当事者を演じる今の若者たちが自分の役をどう捉えているか、という描写が希薄なため、「事件の当事者たちの心情」とともに「演じる若者たちの心情」もこちらが想像しなければならない。考えなければならないのは「昔」か「今」か。この負担が消化不良の原因になっているように思われる。
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- 『光の雨』(映画)──事件を客観化して本質に迫ろうという狙いはわかるが
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