『アバター〈特別編〉』──3D劇場で体感したのは〈立体感〉よりも〈重量感〉

おことわり:筆者は“通常版”を見逃してしまったので『アバター』は初見です。

“Based on the movie by HAYAO MIYAZAKI”というクレジットがいつ出るのかとヒヤヒヤしたが、それは杞憂に終わった。

ジェームズ=キャメロンの3D映画といえば、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの『ターミネーター2:3-D バトル・アクロス・タイム』があるので、「今さらちょっと映像が立体になったくらいでは驚かないぞ」と息巻いて、IMAXデジタルシアターの最後列中央(ほんとはもっと前のほうがよかったかも)、かつ吹き替え版という、制作者の想定に限りなく近い環境で視聴。

そこで味わったのは、〈立体感〉というよりむしろ〈重量感〉であった。

「アバター」という言葉から、バーチャルなものというか、実体のないもの、わかる人にはわかる表現でいえば「スタンド」のようなものをイメージしていたのだが、本作品に登場する異星人「ナヴィ」の存在感は尋常でない。“地球人”のそれを凌駕するほどだ。

まあ、こういっちゃなんだが、「ネイティリの肌をぺたぺたとさわってみたい」と思ってしまった。

おそらくこういう感覚こそが、監督の狙ったことであって、「スクリーンから映像が飛び出てくる」なんてことは陳腐だと考えている節もある(“尖ったものを目の前に突きつけられる”感覚が味わえるという意味で、『ターミネーター2:3-D』のほうが〈立体感〉はあると思う)。

これまでは、「存在のどうしようもない軽さ」がCG作品にはつきものであったが、ここへきてそれを克服したようだ。

よく言われるように、3D映画のひとつのスタンダードとなる作品には違いない。

とはいえ、映像・音響面では目を見張るものがあるものの、物語がどうもパッとしないのは気になる。

どう考えても、物語の3分の2が経過したころにようやくこの映画の“本題”は始まる。

しかし、この“本題”が始まる前の3分の2の部分がなければ、前述の〈重量感〉は味わえないだろうというジレンマもある。

つまり3D表現と物語が乖離してしまっている点が「3Dのスタンダード作品」としての限界であると言える。

とくにthe movie by HAYAO MIYAZAKIに親しんでいる者ならば、クライマックスで「シシ神を出でよ! 人間を滅ぼせ!」と心の中で叫んだことだろう。

でも「シシ神」は出ないのだ。

あと何年かして、3Dで〈重量感〉を表現することが当たり前になったときに初めて、「あそこでシシ神が出る映画」を作れるようになるのだと思う。

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