死刑否定論者が考える「死刑肯定論」──『ジョジョの奇妙な冒険』にみる殺人に対する〈裁き〉

このブログは死刑に反対の立場ですが、では否定論者があえて死刑を肯定する理論を構築するとどうなるか。今回はこれに取り組みたいと思います。

これによって肯定論のメリット・デメリット、否定論のメリット・デメリットが見えてくるはずです。

このような作業に対し、「ただの言葉遊び」「単なる抽象論」という批判があるかもしれません。

しかし、「刑を科す」「人を裁く」というのは、観念的・抽象的・哲学的考察なしに正当化することはできません。

一方で、刑罰というのは、実践的・具体的な社会の政策であり、実際の事象に対して適用されるものです。

つまり、死刑(刑罰)は、抽象的要素と具体的要素とで成り立っており、両者のバランスをどうやってとっていくかが課題となります。死刑論議が錯綜する理由もここにあります。

また、死刑を考えるにあたっては、最終的な結論として(つまり具体的な政策として)賛成するにしても反対の立場をとるにしても、〈罪を償う〉とは何か、〈国家〉とはいかにあるべきか、〈人〉はいかにいきるべきか、という問いに答えなければなりません。

一見〈言葉遊び〉のように思える作業に従事する理由もここにあります。

●〈死刑〉と〈ポア〉

といったところで、さっそく「死刑肯定論」を考え始めるのですが、これがなかなかたいへんな作業であることに気づきます。

殺人を理論的に肯定する、というのがなかなか難しい。

理論構築の助けになるものはないかと、本屋に向かうわけですが、「否定論」はあっても、「肯定論」を展開する本はなかなか見つかりません。

そこで、インターネットで検索して探してみると、今度はほとんどが「肯定論」で「否定論」は少数派です(少なくとも感覚的にはそう見えます)。

ネット上の「肯定論」を参考に、自らの理論を構築しようとするわけですが、どこか違和感を覚えるのも事実です。

別に自分が「反対派」だから「賛成派」に共感できないとかそういうわけではありません。

一般に、「死刑」に賛成するにしても、反対するにしても、両者が考える「死刑」は、(細かい部分での差異はあるにしても)同じものであるべきでしょう。でないと、「賛成」「反対」の価値判断が下せませんから。

ところが、ネット上の「死刑肯定論」の指し示す「死刑」は、現実に運用されている「死刑」ではないようなのです。

では何かといえば、よくはわからないのですが、「死刑」などではなく、〈ポワ〉ではないか、という疑問が生じています。

〈ポワ〉とは

意識(シェリク)を身体から抜き取ってより高い状態へ移し変えるチベット密教のヨーガ的秘法

(川崎信定・訳『原点訳チベットの死者の書』ちくま学芸文庫)

のことですが、この〈ポワ〉という言葉を知ったのは、地下鉄サリン事件に関連して報道されたオウム真理教の教義でした。

このブログは、オウム真理教の教義をくわしく知っているわけではないので、あくまで当時の報道の内容からイメージした限りですが、ネット上の「死刑肯定論」の語る「死刑」は、現在運用されている「死刑」の実態とは大きく異なっており、その思想をひと言で表わせば、〈ポワ〉ではないかという印象を抱きます。

つまり、〈死刑肯定論〉とひとくちにいっても、実態は〈ポア肯定論〉の可能性があり、死刑論議をおこなう際には注意が必要です。

本記事で考える〈死刑肯定論〉とは、もちろん実際に運用されている〈死刑〉を指しています。

●自らが自らを罰する〈三角頭〉論

前回のエントリーで、PlayStation2用ホラーアクションゲーム『サイレントヒル2』を引き合いに出し、〈死刑肯定論〉について触れました。

前回は単なる蛇足として扱ったのですが、あらためて考えみると、なかなかすぐれた理論のように思えてきます。

つまり〈死刑〉とは、自らが自らに科した罰であるという考え方です。

いたずらにゲームのネタバレを防ぐため、詳細は前回のエントリーを見ていただくとして、ここではこの理論を〈三角頭〉論と名づけることにしましょう。

われわれはお互いの利益を侵害しないように契約を交わし、〈国家〉を作った。利益侵害というルールを破った場合は〈国家〉が罰を与える。

いささか乱暴でありますが、〈国家〉の成立要因は上記のとおりで、〈刑罰〉というものの根拠もそこにあるといっていいでしょう。

つまり、理論上は、〈死刑〉という刑罰を科しているのは、他でもない自分自身である、と考えるわけです(いうまでもなくこれはオウム真理教的〈ポア〉とは異なります)。

ここで問題となるのは、〈殺人〉という大罪を犯してしまった場合に、どうすればそれに〈報いること〉になるのか、ということです。

〈死刑肯定論〉では、〈死ぬこと(殺されること)〉が〈報いること〉になるというわけです。

これでとりあえず〈死刑〉を導入する下地はできました。

しかし〈死ぬこと(殺されること)〉=〈報いること〉という図式そのものを疑う必要があるのではないでしょうか。ここでは「その図式が成り立たない」と言いたいのではなく、ほんとうに疑問なのです。

●『ジョジョの奇妙な冒険』の〈裁き〉とは?

今回は、マンガ『ジョジョの奇妙な冒険』(荒木飛呂彦・著/集英社)の描写から、殺人という大罪に〈報いる〉、あるいは〈裁く〉ということについて考えてみます。

『ジョジョの奇妙な冒険』第4部の序盤に登場する敵キャラクターは、死刑判決を受けながら、〈スタンド〉と呼ばれる特殊能力で脱走し、犯罪を行ない続けている凶悪殺人犯です。

最終的に、主人公たち(やはり〈スタンド〉能力の持ち主)が殺人犯を追いつめ、倒そうとする(殺そうとする)と、「自分を殺したら、オマエも呪われた魂になる」などといって、悪あがきをします。

そのあと、少し紆余曲折があって、結果的に主人公がこの敵の命を奪うのではなく、〈スタンド〉能力で、“岩の塊”に変化させて生かし続けます。

こういってはなんですが、アクションマンガなのですから、単純に「奮闘のすえ、敵を倒した(殺した)」という話でもいいはずですし、誰からも文句は言われないでしょう。

ところが、単純に命を奪うだけでは、〈裁き〉にはならない、〈報いること〉にはならない、とおそらく作者は考えたわけです。

ちなみに、「相手が凶悪殺人犯であろうと、命を奪えば、自らも呪われる」という思想は、敵が苦し紛れに吐いた言葉ではありますが、第4部全編を通して貫かれており、「主人公が敵を殺す」という場面は一切描かれません(あくまで「再起不能」として物語から退場するか、後に「友人」(!)として登場するかのどちらかです)。

とはいっても、『ジョジョの奇妙な冒険』において、主人公が敵を殺さないのは第4部だけで、そのほかのシリーズでは、当然のように激しい命の応酬が行われます。

さて、第5部において、主人公たちが戦いを繰り広げる最後の敵は、マフィアのボスで、上記の第4部の凶悪殺人犯より、もっと“悪い”人間、“罪深き”人間として描かれます。

単純に命を奪うことはもちろん、“岩”として生かし続ける、というのも、物語上のバランスから考えて、〈裁き〉にはなりません(と、作者は考えたことでしょう)。

そこで、第5部では、マフィアのボスに対して「主人公たちによって〈死〉が与えられるが、その〈真実〉には永遠に到達しない」という〈罰〉が与えられます。
つまり、〈死〉に至るほどの苦痛を未来永劫に永遠に味わう、という状態に陥るのです。

以上、今回は〈報いる〉〈裁く〉ためのひとつの方法として、「岩にする」「死を繰り返す」の2つを挙げました。

もちろん、これらは〈スタンド〉という特殊能力によって実現されているものであり(そもそもマンガというフィクションであるから)、〈死刑〉の具体的な方法として、このような手段を用いろ、と主張したいのではありません。

ここでは単純に「死ぬこと(殺すこと)」が、殺人という大罪に対して〈報いること〉になるか、あるいは〈裁くこと〉になるのか、という疑問を呈したいだけです。「ならない」と断定したいわけでなく、「死ぬこと(殺すこと)」=「報いること」「裁くこと」という図式を何の検証もなしに受け入れてはならない、ということです。

では、どうすれば〈報いること〉〈裁くこと〉になるのかというと、その答えはまだ出せません。

出せないけれど、しかし、このブログは「考えるための場」でありますから、これからも考え続けていきたいと思います。

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