このブログで考察の対象にしている〈三角頭〉論は、乱暴にまとめるなら「裁くのは自分自身だから死刑は正当化される」というものでした。
〈三角頭〉や〈インクイジター〉は、現実世界には存在しえないため、実際は「殺人という〈罪〉を犯してしまったときのために〈法〉を整備しておく」という対応になります。
〈法〉を作る段階では、具体的な殺人は起こっていないため、論理的には以下の2とおりの立場に置かれることが考えられます。
- [A] 〈自分〉が殺す
- [B] 〈自分〉が殺される
しかし、〈死刑〉論においては、往々にして[B]のバリエーション
- [B-2] 〈自分〉が殺される側の家族になる
のみが取り扱われがちです。
ですから、これに[A]のバリエーション
- [A-2] 〈自分〉が殺す側の家族になる
を加えた4つの立場で考えなければ公平とはいえないでしょう。
さて、死刑肯定論者が否定論者に対して行なう反論に、
自分の家族が殺されても死刑を否定できるか
というものがあります。
しかし、この問いが成り立つのであれば、同じように下のような問いも成立するはずです。
- [a-1] 〈自分〉が殺しても死刑を肯定/否定できるか
- [b-1] 〈自分〉が殺されても死刑を肯定/否定できるか
上記のバリエーションで下記も加えてもよいでしょう。ただし、あくまで派生です。
- [a-2] 〈自分〉の家族が殺しても死刑を肯定/否定できるか
- [b-2] 〈自分〉の家族が殺されても死刑を肯定/否定できるか
これは、単なる言葉遊びではありません。
「自分の家族が殺されても死刑を否定できるか」という反論は、「自分の家族が殺されたら死刑を否定できないはずだ」ということが前提になっています。
しかし実際には、自分の家族が殺されても死刑を肯定しない場合があることは周知のとおりです。
ここで「自分の家族が殺されても死刑を肯定しない人がいるのだから、肯定論は誤りである」といいたいわけではありません。
死刑を肯定するにしても否定するにしても、上記の4つの問いに答える(考える)ことが必要だと主張したいわけです。
ところで、〈三角頭〉論は、先に述べたように「〈自分〉が殺人を犯してしまった場合の対処法をあらかじめ〈法〉で定めておく」ことが第一義的な内容となります。そして「〈自分〉が殺す場合」以外の立場からも死刑を考察する必要があることはすでに述べました。
ということは、実際に〈殺人〉が起こる前に、「殺す/殺される」立場からモノを考えなければなりません。
しかし、これがなかなか難しい作業であることは、すぐに想像がつくでしょう。
まず、殺す立場になるというのはどういう状況なのか。あるいは、自分の家族が殺す側にまわるというのは、どういうことなのか。
一方「自分の家族が殺された場合のことを考えろ」という問いかけは、一見もっともらしいように思えます。しかし、「自分が殺される立場になれば、死刑を肯定するはずだ」というのは、「殺される立場で考えることは容易だ」といっているのに等しく、軽々に発することのできない問いであることがわかるはずです。
もちろん、「簡単に考えられない」から「考えなくてもよい」ということではありません。
「自分の家族が殺されたらどう思うのか(死刑を肯定するのか、否定するのか)」というのは、考えなければいけない問題です。
それと同時に、「自分が殺したらどう思うのか」などの問いも同じように考えなければならない。
まずはこれを肝に銘じることから死刑論は出発するべきだと思うわけです。
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