ここ1週間ほど、大きな回り道をしながら、〈死刑〉について考えてきました。
〈死刑肯定論〉として提案した〈三角頭〉論(〈インクイジター〉論)の内容を簡単にまとめると、
- 刑を科すのは自分自身である。
- 自分が自分を裁くなら公平である。
というものでした。
ここで、〈国家〉とは何か? 〈人〉とは? などといった原点に帰り、あらためて〈三角頭〉論をとらえ直してみましょう。
そもそも〈人〉はなぜ〈国家〉を作るのか?
それはみずからの〈利益〉を守るため。
すなわち、〈人〉はみずからの〈利益〉を守るために、お互いに〈契約〉を交わし、〈法〉を定め〈国家〉を作った。
そして、この〈法〉を侵したものに〈刑罰〉を科すことで〈利益〉を守る。
つまり、あくまで〈刑罰〉を科しているのは、〈自分〉であるということになります。
では、どのような〈刑罰〉を科すべきなのか。
この問いは、どうすれば〈罪〉に報いることになるのか、と言い換えてもいいかもしれません。
たとえば、〈殺人〉という〈罪〉を犯してしまったとき、どうすればその〈罪〉に報いることになるのか。
ひとつの考え方としては、死をもって報いる方法。この場合、あくまでも「殺す」のも「殺される」のも、みずからがあらかじめ〈契約〉でとりきめていたことであり、問題はない──ように思われます。
ただし、これは「死刑を科しても問題ない」という消極的肯定であり、「なぜ殺されなければならないのか?」という問いには積極的には答えていません。
別の言いかたをすれば、「殺される」ことが〈罪〉に報いることになるのかどうかという問いには答えていません。
「答えていない」から「死刑に反対」という主張はいちおう成り立ちますが、これも消極的否定というべきものでしょう。
では、このブログの提唱している〈国家機能限界説〉とは、どういうものなのでしょうか。
ここで、冒頭の「〈人〉はみずからの〈利益〉を守るために、お互いに〈契約〉を交わし、〈法〉を定め〈国家〉を作った」という〈国家〉の成り立ちに戻ります。
ここで作られた〈国家〉というものは、目で見たり手で触れることができないバーチャルな存在です。
〈人〉の五感で感じることはできないけれども、「存在していることにする」というお互いの〈契約〉のもとに「存在」しているのが、〈国家〉の本質であるといえます。
では、この観点から〈死刑〉をとらえるとどうなるか。
本当は存在していない〈国家〉が、〈死刑〉を科すことはできるのか。
答えは「できない」。なぜならば、〈国家〉は本当は「存在していない」から。
しかし、現実には〈死刑〉は行なわれている。
なぜか。
それは、〈国家〉ではなく〈人〉が〈死刑〉を執行しているから。
端的に言えば、〈人〉が殺しているから。
これが〈死刑〉の本質です。
では、その観点から〈三角頭〉論を考えるとどうなるか。
〈三角頭〉は、みずからの罪悪感が生み出したものですが、実体を持った〈存在〉です。
実際に〈刑罰〉を科す能力を持っています。だから、〈三角頭〉は殺そうとする。しかし、〈三角頭〉は〈人〉ではない。
言うまでもなく、〈三角頭〉はゲームという虚構のキャラクターだから「存在」できるわけです。
しかし、現実世界では、〈死刑〉は〈人〉の手を使って行なわなければならない。
具体的には、裁判官や裁判員、刑務官が〈殺人〉を行なわなければならない。
もちろん、彼ら彼女らに〈殺人〉をさせているのは、〈自分〉すなわちこのブログを書き読んでいる我々そのものです。
これを是とするのか、否とするか。
〈死刑〉の是非は、この命題に収斂するのではないか、とこのブログでは考えます。
そして、〈国家機能限界説〉とは、「〈国家〉が実際に〈殺人〉をすることはできない。〈死刑〉とは〈人〉が〈殺人〉を行なうことである。そのような残虐、非道、不条理を〈人〉にさせてはならない」と考える理論ということになります。
〈死刑反対論〉を主張する際、冤罪の可能性や憲法違反、世界潮流(国連決議やEU加盟条件)などがうたわれることがあります。
これらは、もちろん考慮すべき問題であると考えますが、このブログが提唱する〈国家機能限界説〉はこれらを論拠にしていません。あくまで「〈人〉に殺人をさせてはならない」ということのみを主張する一点突破型の理論なのです。
〈人〉とは何か? 〈国家〉をどう作るか? 〈人権〉(FHR)とは? といった問題と、〈国家機能限界説〉をどう結びつけていくかが今後の考察テーマとなります。
随分遠い迂回路でしたね。概ね根っこ部分は賛同できます。国家が殺人を
犯すのは戦争と同列ですから。
しかし今の犯罪状況からすると、死刑廃止論を理論で押しても通らないと思います。
要は被害者感情と、応報刑の捉え方です。極端に言えば、犯罪者に死刑では無く、苦しみを与える(重労働)もしくは痛みが伴う(鞭打ち)刑を科すなどといったような何らかの代替案を提示すべきではないでしょうか。
コメントありがとうございました。
ご指摘の点はまさしくそのとおりで
死刑を廃止するとして
「ではどうすればいいか」というのは
これからもブログで
考え続けていきたいと思っています。