〈政治〉と〈政局〉はちがう──アジェンダ・セッティングのこと

最近、めっきりテレビを見なくなった私も「よりぬき銀魂さん」や「あらびき団」といった番組は録画して欠かさず見るようにしている。

これらの番組を「ゼッタイおもしろいからみんなも見てね(* ̄0 ̄)ノ」とオススメすることはできるが、見るか見ないかはその人の自由──というより、実際に見て楽しめるかはその人の趣味とか嗜好によるだろう。

──と、ここまでは誰もが納得できるはず。

ではほかの例ではどうか。

最近の事例でいえば、サッカーのワールドカップはどうだろう。

いくら国民みんなが夢中になっている(と思われた)としても、これに関心を持つかどうかは人それぞれだ。ゼッタイに注目しなければならないというシロモノではないはずだ。

ここでさらに話を進めて、「政治問題」を考える。

最近では、民主党の代表選挙がよい例だろうか。

先に書いたように、近ごろはアニメと深夜のお笑い番組にしかテレビのチャンネルを合わせず、ましてニュースなんか見てないので、間違っていたら素直に謝りますが、けっこう民主党の代表選挙は、テレビで熱く取り上げられていたのではないですか? 違います?

じつはこの問題さえも、乱暴な言い方をすれば「銀魂」や「ワールドカップ」同様、どーでもいいことなのだ。

民主党の代表が誰になるかというのは、民衆党員とかサポーターでない人にはどーでもいいことだ。

なぜならば、一般の人に投票権はなく、したがってわれわれの意見は反映されないからだ。少なくともシステムとして保障されてはいない。

これも間違ってるかも知れないというお断りをしたうえで述べるが(なにせ実際のテレビを見ていないので)、菅vs小沢と、まるでスポーツを観戦させるかのような(それこそ「ワールドカップ」の試合を放送しているかのような)報道がなされていたのではありませんか?

ようするに、マスコミで扱っているのは〈政局〉であって〈政治〉ではない、ということだ。

このブログで提唱している〈アジェンダ・セッティング〉とは、「たいして重要ではないのに、重大な問題として考えてしまう」という問題意識を意味している。

ここまで読んでいただくと、このブログでは〈アジェンダ・セッティング〉を仕掛けているのが、マスコミであり「それはけしからん!」と断罪しているように思われるかもしれない。

でも私はもはやマスコミの報道には何の期待も寄せておらず(というより、見る時間がほとんどない)、したがってどーでもいいと思っている。

〈政局〉と〈政治〉は区別すべきだと思うのだが、そして実は〈政治〉なんて存在していないのでは、というのが現段階の結論なのだが、もう少し考察を進めて、あるていどまとまったところで、またこのブログで持論を展開してみたい。

ところで、前回の〈アジェンダ・セッティング〉のエントリーに対してut9atbun61さんからご意見を頂戴しましたのでご紹介します。

「アジェンダ・セッティング」について。

 ぎゃふん工房さんのいうそれは、確かに真理を突いていて頷かされるのですが、あくまでも理想論じゃないでしょうか?

 選挙に限って言えば、所詮選挙は勝ってなんぼの世界。

 そのためには変に考えるよりも取りあえず入れればいいだけなのです。

 少し乱暴ですが、数の論理に勝るものはありません。

 ある問題提起に対して考えること自体がワナ…といっても、マスコミや風潮に触れること自体は(私にとっては)、疑う出発点であり広がりの出発点でもあるため、結果として考える必要がないという選択肢も出てくるはずです。

 自分のマニュフェストを確立して、様々な人や媒体とコミュニケーションを取りながら(一方通行ではだめ)問題に取り組めばいいのでは?

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