3月31日の問題提起以来、大きな回り道をしてきました。今回はいよいよ「法治国家である以上、当然ながら死刑を執行すべき」という論理を検証します。
回り道の途中、「表層的な事象ではなく、本質を見抜くこと」の必要性と難しさ、「何が大切で何が大切でないか」を考えること、すなわち価値の優先順序をつけることの重要性を学んできました。
ここで考察すべきは、「では、なぜ法を守らなければならないか」という問いです。
「法治国家なのだから、当然ながら法に従うべき」という場合の「当然」という言葉には、「面倒な議論をせずに前提条件としてよい」「一般的に(世界的に)広く受け入れられている価値である」といった意味が含まれると思います。
したがってほとんどのケースで「法治国家なのだから」とか「法に従うべき」などと主張することは、とくに問題がないことになります。
ところが、特別な手続きなしに〈法〉という概念を最高の価値として扱えない例外が存在します。
それが、〈基本的人権〉(=FHR)に関わる場合です。
なぜならば、〈FHR〉は〈法〉や〈国家システム〉よりも優先する価値だからです。
というより、そもそも〈国家システム〉や〈法〉は、〈FHR〉を尊重するために存在しているのです。
ほとんどの場合、「〈FHR〉の尊重」という〈目的〉は、とくに断りなく前提条件としてよいため、考察や議論において、そのことを明示する必要はありません。
しかし、「〈FHR〉の尊重を目的とする」という前提条件が崩れるとき、あるいは〈FHR〉そのものを俎上に載せるときには、注意が必要なのです。
ここで、先ほど「なぜ法を守らなければならないか」という問いが立ちはだかります。
といっても、その答えはすでに出されており、〈FHR〉を守るため、というのは「面倒な議論をせずに前提条件としてよい」「一般的(世界的に)に受け入れられている価値である」といえます。
たとえば、「法に従って手続きを進めるべき」という場合、その目的は〈FHR〉を尊重することにあると考えることができます。
すなわち「(〈FHR〉を尊重するため)法に従って手続きを進めるべき」という理屈になるわけです。
〈死刑〉を含めた〈刑罰〉の問題は、〈FHR〉をどの程度〈法〉の側に下ろしてくるか(〈法〉で制限できるか)、という考察になります。
このブログの場合、〈生命〉は〈FHR〉の中でも最高の価値であり、〈法〉によって制限することはできない、したがって〈死刑〉に反対、という立場をとっています。
大臣が法に従って刑の執行を命じることは、〈FHR〉より下位に位置しているため、〈FHR〉を尊重する目的のためには、法に従ってはならないことになります。
日本を含めた多くの国で、〈法〉は〈FHR〉を尊重するための手段として機能しており、もし〈法〉と〈FHR〉の優先順序を入れ替えるなら、それ相応の根拠が必要です。
もちろん、「〈FHR〉なんてくそ喰らえ。〈FHR〉は欧米諸国のローカルな価値観に過ぎない」と主張することは可能です。
まさにそのように主張している国の代表例が中国であり、死刑になった人が数千人に上っている理由は、〈FHR〉を優先していない証拠といえるでしょう。
そう考えると、3月31日に取り上げた『読売新聞』の社説は、日本の新聞でありながら、なぜか中国政府と同じようなことを主張していることになり、そのこと自体は直ちに「悪い」と断定できないものの、不思議な感じがすることは否めません。
くりかえしになりますが、「法に従って〜」という言説は、ほとんどの場合、そのまま受けいれてもよいけれど、〈FHR〉に関わる問題の場合は、慎重な議論・検証が必要です。〈法〉が「表層的なもの」なのか、それとも「本質」なのかは、きちんと見きわめなければなりません。
また、「何が大切で何が大切でないか」という観点からも、ほとんどの場合、〈法〉を「もっとも大切なもの」として取り扱うことができます。できますが、〈FHR〉を扱う場合は、そうではないということには注意したいものです。
なお、今回はあくまで「法治国家である以上、当然ながら死刑を執行すべき」という場合の「当然」という言葉に対する疑義を提示しただけです。
死刑そのものについては、明日あらためて考えてみたいと思います。
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