最近の注目の話題といえば、北朝鮮とミサイルの問題でしょうか。
まさに〈戦争と平和〉に関わる重大事だけに、このブログの守備範囲といえます。
しかし、〈戦争と平和〉の問題を論じる際には、〈死刑〉と同様に、あらかじめ〈モノを考える枠組〉を作っておく必要があります。
そうしないと、「ミサイルが飛んできたら撃ち落とせばよい」などといった〈理念〉も〈実効性〉もない方法しか提案できないことになります。
実際、多くの人がこの問題をどう捉えたらよいかわからないというのが現状ではないでしょうか。
そこで今回は、“ミサイル問題”を考えるための〈枠組〉づくりに挑戦してみたいと思います。
ただし、今回は〈枠組〉のためのきっかけを作るだけで、問題の具体的な解決策を提示する余裕はありません。あくまで、〈理念〉を構築するためのとっかかりを見つける作業に励むだけです。
では、始めましょう。
〈戦争と平和〉は、〈集団安全保障〉という概念で考えるとうまくいきそうです。
では、〈集団安全保障〉とは何でしょうか。
Wikipediaには、
潜在的な敵国も含めた国際的な集団を構築し、不当に平和を破壊した国に対してはその他の国々が集団で制裁するという国際安全保障体制の一種である。
と書かれていますが、なんのことだかさっぱりわからないと思います。
〈集団安全保障〉の概念を知るための手がかりとして、今回は深作欣二監督の傑作『バトル・ロワイアル』を取り上げてみましょう。
多発する少年犯罪に対応するため、生徒たちを最後のひとりになるまで殺し合わせる法律が可決。さまざまな武器を手に、中学生たちが戦いを繰り広げるというお話です。
物語の中盤、主人公の七原秋也は、自分がベッドに横たわっているのに気づきます。
敵の攻撃から逃れるため、海に飛び込んだところから記憶がなくなっています。
ベッドのそばにクラスメイトの内海幸枝がいました。内海によれば、ここは灯台の管理室で、数人の女子が立てこもっているとのこと。
七原は、ここから生きて脱出する方法を知っている男がおり、みんなで彼のところに行こうと提案します。内海はそのことを仲間に知らせにいきます。
そんななか、ひとりの女子が不穏な動きを見せます。七原に持っていく食事に密かに毒を入れているのです。
しかし、毒入りの食事は、仲間が食べてしまいます。
数秒後、その子は口から血を吐いて死んでしまいます。
一同パニック状態に陥るなか、ひとりの女子が「誰が殺した!?」と言いながら武器を手にし、銃口を仲間に向けてしまいます。
内海は「バカなことはやめて」と説得しようとしますが、別の女子から「リーダー面するんじゃねぇ」などと妙な言いがかりをつけられてしまいます。
ここには仲の良い仲間同士が集まっていたのでしょうが、一方で日ごろの不満が爆発してしまったのでしょう。
そして、とうとう引金が引かれてしまいます。
こうなると、負の連鎖は止まらず、仲間同士の撃ち合いが始まってしまったのです。
毒を盛った張本人だけを残し、その場にいた女子は全滅してしまいました。
さて、〈集団安全保障〉の観点から考えると、このシーンの問題点はどこにあるのでしょうか。
まず、武器が手元に置いたあった点が指摘できます。では、なぜ彼女たちは物騒なものをテーブルの上に放置していたのでしょうか。
これでその場にいる仲間の誰かを攻撃しようという意図はなかったでしょう。おそらく灯台の外から襲ってくる敵(これもクラスメイトのはずですが)にすばやく対処するためだったのかもしれません。
最終的には、心の奥底にあるお互いに対する不満・憎悪が吹き出してしまいましたが、そもそもは灯台に立てこもる時点で、「お互いを攻撃しない」という暗黙の了解があったことが想像できます(実際に、口頭でそういう約束をした可能性もあります)。
「毒物混入」という攻撃は、仲間に向けられたものではなく、あくまで七原を殺害するためのものでした。七原もここでいう「仲間」に入っていると見ることもできますが、いずれにしても、真相を確かめる手間を惜しまなければ、犠牲者はひとりで済んでいたはずです。
彼女はなぜ七原を殺害しようとしたのでしょうか。
理由は劇中で説明されているとおり、自分のボーイフレンドが七原に殺されたためでした。ただし、七原に殺意はなく事故=過失の殺人というべきもので、劇中でも、「あれは事故だった」と仲間たちの間でコンセンサスが形成されています。
にもかかわらず、武器(毒薬)を使ってしまった、というのがあのシーンだったわけです。
では、「武器を使用しない」という約束を反古にしたこの女子に対して、そのほかの仲間の同意にもとづいて、武力を行使(処刑?)すべきなのでしょうか。
〈集団安全保障〉の理念からいえばそうなるのですが、なんだか違和感があるのも事実です。
その理由がなんであるかが今のところ不明です。そして、そこに〈平和〉を実現するための鍵がありそうです。
ただし、ヒントのようなものは見つかっています。
ひとつは、〈集団安全保障〉は〈国家〉のふるまいを規定したものであること。
このシーンはあくまで〈個人〉対〈個人〉の争いですから、それを〈国際社会〉のアナロジーとして考えていることが原因であるわけです。
もうひとつは、理想的な〈集団安全保障〉が実現されていないことです。逆にいえば、〈集団安全保障〉が実現された状態であれば、武器の使用があり得ないはずだというトートロジー(同義反復)が発生してしまうことです。
以前にも指摘したように、武力には「それを使ってしまう危険性」がつきまといます。
ですから、このシーンの場合、武器はすぐには使えないようなところ(鍵のかかるロッカーなど)に入れて厳重に管理すべきだったのです。そして、その前段階の手続きとして、お互いに持っている武器を披露し、それらを使わないというはっきりとした約束も大切です。
ここまで徹底していれば、そもそも「毒物混入」という事態はありえず、仲間同士の撃ち合いも発生しなかったはずなのです。
そうすれば、七原を含めたここにいる全員が無事に脱出できた可能性は十分にあります。
彼女たちが学校で〈集団安全保障〉の概念を学んでいなかったことが悔やまれるところです。
さて、先に「灯台の外から襲ってくる敵に対処する」と述べましたが、これは〈集団安全保障〉ではなく、〈集団的自衛権〉というべきものです。また〈個人〉対〈個人〉の争いは〈個別的自衛権〉の発動といえます。
『バトル・ロワイアル』という映画そのものが、“個人間の戦争”を描いているわけですから、〈戦争と平和〉を考えるための材料がまだまだ転がっていそうです。今後もこの作品は取り上げていきたいと思います。
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