お正月は暇なので「戦争と平和」について考えてみた──2日目:『サイレン』

他国に攻められたときのために軍隊を持っておくのは当然──というのが自衛隊(日本の武装)賛成論です。

これをわかりやすくするために、「強盗に襲われたとき、抵抗せずになすがままにしろというのか。反撃するのは当然だ」といったたとえ話で説明されることがあります。これを仮に〈強盗論〉とでもしましょう。

今日はこの〈強盗論〉について考えてみます。

たとえ話は複雑化した状況を単純化し本質を抽出することによって物事を理解する際に有効な手段のひとつといえます(現に、1日目に私は『プレデター』を引き合いに出しています)。

たしかに、かのハニバル=レクター博士もこのように語っています。

大事なのは第一原理だ、クラリス。単純化だよ。マルクス=アウレリウスに習い、個々の事象について考える。本来の姿は何か、本質は何なのか

(『羊たちの沈黙』ビデオ・吹き替え版より)

この言葉によって、クラリスは連続殺人犯を発見することができたのですから、その有効性は言うまでもありません。

しかし、この「単純化」は注意深く行なわないと、本質をはぐらかす結果になってしまう恐れがあるのです。

では、〈強盗論〉ではどのような点に注意すればよいのでしょうか。

ここで話は脱線し、プレステーション2用ゲーム『サイレン』シリーズを例に挙げてみます。

このゲームは、わけもなく襲いかかってくる村人たちを撃退しながらストーリーを進めていくという内容になっています。

村人たちはすべて、鎌やピストル、猟銃などの武器で武装をしています。プレイヤーはそれに対抗して、火かき棒やバールなどを手に反撃していきます。

「村人が武装している」点は、そもそもホラーゲームとしての恐怖感を演出する意図があるでしょう。

と同時に、本作品のプロデューサーによれば、「襲われたから反撃する」というプレイヤーの武力行使を正当化する(心理的な敷居を下げる)意味もあるそうです(『SIREN MANIACS サイレン公式完全解析本』ソフトバンク パブリッシング)。

そもそもゲームは、一定の状況・ルールのもとで楽しむ娯楽形態です。「武器の使用」という“遊び”がプレイヤーの都合のよいように規定されているのは当然といえば当然です。

※いちおう念のため付け加えておきますが、『サイレン』そのものは「村人を攻撃する」ことに主眼を置いておらず、プレイキャラクターが武器を手にして戦う局面は多くありません。

じつは〈強盗論〉もこれと同様で、「武器の使用」を正当化するために、恣意的に状況設定が行われているのです。

これが第一の注意点です。

また、〈強盗論〉では、国家の行動を個人のアナロジーとして考えています。
これも注意を要する思考法です。

強盗が襲ってくるのは、法が機能している世界(たとえば日本国内)の話です。

「強盗が襲ってきたら反撃するのは当然」というのは、その「反撃」が正しいと法で定めている場合(たとえば正当防衛)です。

法が正常に機能している社会では、その武力行使が正当なものであったかどうかは、厳しい評価にさらされることになります。

もちろん〈強盗〉も、やはり法によって裁かれることになります。

ところが、国家対国家、つまり国際社会はこのような状況になっていません。

1日目に述べた「国連憲章」では「反撃」する権利が定められていますが、この「反撃」が正当なものであるかどうかを判断する方法がありません(だからこそ、「国連憲章」は完成品でないとしたわけです)。

国際社会は無法地帯というほど純粋な弱肉強食の世界ではないけれど、国内社会ほど安心・安全が保障された世界ではないわけです。

国際社会と国内社会の違いを意識することなく、国家の行動を個人にたとえてしまうと、その理論はとてつもなくトンチンカンなものになってしまいます。

これが第2の注意点です。

このように「恣意的な状況設定」「国際社会と国内社会の混同」という要因によって、〈強盗論〉は往々にして現実世界からかけ離れた与太話となってしまうのです。

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