お正月は暇なので「戦争と平和」について考えてみた──1日目:『プレデター』

お正月のように、普段の喧騒を離れ、まるで悠久の時間が流れているような、そんなゆったりとした精神状態のときには、せわしない日常では思い至らない、大局的かつ抽象的なことがらに思いを巡らせるのに絶好の機会となります。

で、新年は「戦争と平和」という大仰なテーマに取り組んでみることにしました。

本題の前に映画の話から始めます。

『プレデター』(1987年、アメリカ)という作品があります。

先日ブルーレイが発売され、何作もシリーズ作品が製作されていますから、ご存知の方も多いでしょう。

シリーズ第1作目は、ジャングルを舞台にコマンド部隊が謎の生物(プレデター)と戦うというお話です。

戦うといっても、プレデターとの戦闘力の差は歴然としており、隊員たちは次々とプレデターによって惨殺されていってしまいます。

『プレデター』

▲これだけ武装していてもまるで歯が立ちません。

そんななか、ただひとりだけプレデターに襲われない人物がいました。捕虜にした女ゲリラです。

彼女だけが襲われない理由について、劇中ではこのように説明されています。

『プレデター』

▲基本的にプレデターは兵士しか襲いません。

物語の終盤、彼女が武器を手にして戦おうとすると、部隊の隊長はその武器を蹴り飛ばし、逃げることを命令します。

『プレデター』

▲武器を持って戦おうとすると……。

『プレデター』

▲一瞬にして“武装解除”されてしまいます。結果的に彼女は助かります。

※画像は「ゴールデン洋画劇場」の録画をキャプチャーしたものです。字幕もこちらでつけました。

『プレデター』はあくまで架空の話ですので、ここから何か教訓めいたものを得られるとは限りません。

しかし、論理構築のきっかけにはなるでしょう。

それでは本題に戻りましょう。

どうすれば戦争がなくなるか。どのように平和は実現すべきなのか。

人類がたどりついたひとつの結論は「戦争の違法化」「武力の行使の禁止」でした。

たとえば「国連憲章」では、「ゴタゴタが起こったとき、まずは当事者同士、話し合いで解決せよ」と定めています。それでダメなら経済措置。最後の手段が武力です。

「国連憲章」の想定したこの世界観が、法による平和実現のプロトタイプといえます。

ところが、この「国連憲章」には欠陥がありました。最後の手段として「武力の行使」を許してしまったのです。

武力それ自体が平和への脅威となることに気がつかなかったのです。

「国連憲章」はしょせんはプロトタイプ。完成品とはいえません。

「ゴタゴタが起こったとき、まずは当事者同士、話し合いで解決せよ」という「国連憲章」のコンセプトを継承しつつ、なおかつ「最後の手段」としての武力の使用もシャットアウトするという、より完成度の高い、実践型の法も存在します。

いうまでもなく日本国憲法です。

よく誤解している人がいますが、日本国憲法には第9条しかないわけではありません。

日本国憲法は、「基本的人権の尊重」(このブログでは独自の用語として「FHR」と言っています。「人権──私はこいつを〈FHR〉と名付けて呼んでいる」参照)という〈目的〉を達成するために、その〈手段〉として「国民主権」と「平和主義」を規定しています。

つまり、「人々が戦争の脅威にさらされることなく幸福に生きる」という目的を達成する手段のひとつとして「軍事的思考」「軍事的合理性」を徹底排除するというのが第9条なわけです。

第9条はあくまで〈手段〉のひとつ(それも採用してはいけない〈手段〉について)を規定しているだけですから、平和の実現のしかたを探る際に、ここをほじくるだけでは限界があります。

日本国憲法が国連憲章などのコンセプトを受け継いでいることを考え合わせると、ゴタゴタを解決するために武力は使わず、武力それ自体が平和の脅威となることから武力に関する「思考」「合理性」を完全に否定し、なおかつ他国と協調してこれらを実現するというが、基本理念となります。

日本国憲法の「平和主義」とは、非武装の部分だけをいうのではなく、「平和に生きる」という権利をFHRという至上の価値と規定したうえで、そのための手段を(第9条以外にも)さまざまに定めている点を指していると考えられるのです。

私たちは自分や他人が幸福に生きられればそれでよいのであって、究極的には日本という国家システムがどうなろうと、日本国憲法がどう定めようと関係ありません。

ただ現時点では、国家システムの改善や日本国憲法を遵守させることが自分たちの幸福につながるのではないか、というだけのことなのです。

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