小説やマンガに比べ、テレビゲームを映画化するのは、やっぱり難しいんだろうなあ、とこの映画を見て思った。といっても、この映画版『サイレン』が駄作というわけではない。
テレビゲームというのは、〈遊び〉と〈世界観〉の2つの要素から出来ている。『サイレン』で言えば、「敵に見つからないように脱出する」というアクションアドベンチャーの部分が〈遊び〉、「呪い」だの「不老不死」など、なんとなく不気味さを演出している部分が〈世界観〉だ。
〈遊び〉と〈世界観〉のうち、テレビゲームの核心は〈遊び〉の部分だ。決して〈世界観〉のほうではない。ここを勘違いしているユーザー(まれに制作者)もいるけど、ゲーム版『サイレン』の制作者はこの点を非常によく心得ている。だからこそ、原作のテレビゲームはあれだけの傑作ホラーに仕上がったわけだ。
さて、テレビゲームを映画化しようというとき、言うまでもなく〈遊び〉の部分を再現するのは不可能だ(主人公を操作できないわけだし)。つまり、映画化できるのは、テレビゲームの持っている〈世界観〉のほうということになる。言い方を換えれば、テレビゲーム版『サイレン』の魅力のほとんどを映画では再現できないことが、宿命のように定められているのだ。
しかし、テレビゲームの〈遊び〉の部分を再現できないかわりに、映画は「主人公の“人生”のうち、観客にとってもっとも魅力的な部分だけを凝縮して見せる」ということができる。これを〈ドラマ〉の部分と呼ぶことしよう。
テレビゲームが〈遊び〉と〈世界観〉という2つの要素で出来ているとするならば、映画は〈ドラマ〉と〈世界観〉で出来ていると考えることができる。
先に「テレビゲームの核心は〈遊び〉の部分」と述べた。しかし、『サイレン』の一番おもしろいところは〈遊び〉の部分にまちがいないのだけど、〈世界観〉もたいへんよく作り込んである。だからこそ、映画会社も「映画化したい」と思ったのだろう。
問題はだ。テレビゲームの場合、〈遊び〉を通して〈世界観〉を見ることになるわけだが、テレビゲーム版『サイレン』は、きわめて難易度の高い作品であることが知られている。つまり、何十時間も何日も時間をかけてじっくりと〈世界観〉に浸っていくことになる。それだけ、提示される情報量も膨大なものになるわけだ。
一方、映画のほうといえば、たかだか1時間半に満たない上映時間のなかで、〈世界観〉を見せていかなればならない。
この映画がテレビゲームを原作とせず、オリジナルのお話であったとしたら、上映時間に見合うだけの〈世界観〉を設定できただろう。でも、相手は〈世界観〉に凝りまくった『サイレン』なのだ。ここが、テレビゲーム『サイレン』の映画化にあたり、もっとも悩んだ点であったと想像できる。
というわけで、テレビゲーム版のファンとしてこの映画版『サイレン』を批評するならば、なかなか健闘していたのではないかとは思う。テレビゲーム版『サイレン』『サイレン2』の持つ独特の〈世界観〉を換骨奪胎し、短い時間のなかで要領よく見せていたと評価できる。
〈ドラマ〉の部分は、ひとつの独立した映画としてみた場合は、少し弱い気もしないでもないけど、テレビゲーム版とは異なる物語が楽しめるという意味では、満足度は高い。
また、なるべく差し障りのない、些細な例をあげると、主人公が“敵”から逃れるとあるシーンで、テレビゲームを知っている人なら、つい□ボタンを押したくなる(=懐中電灯を消したくなる)ところがある。実際、映画のなかでも、わざわざ懐中電灯を消す、という演出が施されているのだ。このほかにも、テレビゲーム版を知っている人なら思わずニヤリとしてしまう部分がめざとく入れてある。
こういった面白さが、果たして原作のテレビゲームを知らない人にわかるかなあ、ということだ。なんとも中途半端な、たいして恐怖感を覚えない「ホラー」ないし「スリラー」にしか見えないのではないか、という余計な心配をしてしまう。
ブログなどの感想では、「怖がらせようとしているのか、笑わせようとしているのか、わからない」という指摘もあったけど、それはテレビゲーム版も同じなのだ。なぜならば、「ホラー」というもの自体が「恐怖」と「笑い」の狭間にあるものだからだ。
その意味で、映画版『サイレン』の方向性は正しいのだけれど、より多くの人が〈満足感〉を得られるかと言えば、そうはいかないだろうなあ、というのが正直なところだ。
サイレンの矛盾
東京の池袋の映画館でサイレンを見てきました。
このサイレンは音がリアルという事で話題です。
その音に期待して行ったのですが、池袋の映画館は小さいし設備が古そうな所だったので
あまり音の良さを実感できませんでした。残念です。
私はゲームのサイレンを持っています。
ゲームがとても面白いので映画の方も前々から見たいと思っていました。
ゲームは結局時間がなかったり難しかったりでクリアしていま�…