途中まで「こりゃダメかな」と思った。「ダメかな」というのは、つまらん、駄作、失敗作ということではない。『劇場版 呪怨』やハリウッド・リメイク版のように「ホラー初心者向け」「より多くの人が楽しめるエンターテイメント作品」のこと。すなわち、ワシのような“プロのホラーマニア”としては不満の残る作品のことだ。
しかし、クライマックスにおいて、その思いは見事に打ち砕かれる。怖かった。“プロ”のワシでさえビビったのだから、“フツー”の客人の恐怖度は相当なものだったろう(なぜか年齢層の低めだった劇場内は一時騒然となった)。
このクライマックスは、まさに清水崇の真骨頂、「呪怨」的と言っていいだろう。個人的には、恐怖半分、嬉しさ半分で、心のなかでニヤリとしてしまった。
ただし、終盤は怖いが、途中までは(少なくともワシにとっては)怖くないのだから、作品全体の完成度は低い、と評価しなければならないことになる。順当に考えれば、だ。
しかし、「途中まで怖くない」理由を分析してみると、実は“積み上げている”からだとわかる(しつこいようだが、“フツー”の人には途中も十分に怖いはず)。
よく考えてみると、『呪怨』シリーズの恐怖は、その場しのぎ、刹那的なものだ。並列的、といっていもいい。恐怖シーンと恐怖シーンの間には何の関連性もなく、単発的に恐怖演出が炸裂していく。それが監督の狙いであり、同シリーズを特徴づけている点である。「時系列にストーリーが進行しない」という独自の構成もそれを象徴していると言える。
しかし、『輪廻』は、クライマックにいたるまで、ストーリー・設定を丹念に積み上げている。“フツー”の人を驚かすような恐怖演出をはさみつつ、“プロのホラーマニア”向けのミスリーディングも織り込まれているのだ。だから、“フツー”の人、“プロ”の人を問わず、クライマックスの恐怖演出が生きてくる。
つまり、これまでの清水作品が《並列的恐怖》だったのに対し、今回は《直列的恐怖》を提示したというわけだ。
『輪廻』は「Jホラーシアター」の第3弾の作品となるわけだが、思えば、第1弾の『感染』『予言』ともに、決して大衆に迎合しちゃいなかった。「フツーの人はそっぽを向いてしまうかもしれん」というリスクを背負いながらも、ホラーの巨匠たちが全力で、妥協することなく、それぞれの新境地を切り拓いていた。
そこに思い至っていれば、「こりゃダメかな」なんて思考に流れちゃいなかったはずなのだ。“プロのホラーマニア”を自称するなんて、ちゃんちゃらおかしい、ってことになる。
2006年。新年早々、猛省の必要あり、だ。
それにしても、一番おっかなかったのが、やはり“伽椰子”のシーンだったというのが、清水崇作品ウォッチャーとしては嬉しいところでしたな。
[注]劇中にほんとうに“伽椰子”が出てくるわけではありません。
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