「本日カサの忘れ物が多くなっております」──忘れ物はカサじゃない

「本日カサの忘れ物が多くなっております。お手回り品にはご注意ください……」
雨の降る日に地下鉄なんかに乗ると、こんなアナウンスを聞くことがあります。
カサはつねに“モバイルタイプ”(折りたたみ傘とも言う)を持ち歩き、車内では鞄にしまいこんでしまうため、カサを置き忘れたまま電車を降りることは理論上ありえない私にとっては、じつに無駄な注意です。
ですから、普段はこのアナウンスが流れてきても単なる雑音で、いや雑音であることすら認識しないのですが、ごくまれに「ん?」と思うこともないではありません。
最近では、この種のアナウンスは、車掌さんによるものではなく、あらかじめ録音された音声で流されることが多くなっています。
「本日カサの忘れ物が多くなっております」というけど、ほんとうに多くなっているのか? 実際にカサの忘れ物を調査したのか? 今はまだ午前中だぞ!? こんな短時間に? どんな調査システムを設置しているのだ? もっとちがうところに金をかけるべきではないか!?
……などというイチャモンが頭に浮かんできてしまうのです。
「本日カサの忘れ物が多くなっております」というアナウンスが、忘れ物防止にどれほど貢献しているというのかね? いや、そもそも乗客を幼稚園児扱いして失敬ではないか! 不快な音を聞かされない権利もあるはずだ!
……なんていう“社会科学的”な愚痴は、ホンカツさん(本多勝一氏)や中島先生(中島義道氏)におまかせするとして、ここでは別のアプローチを試みることにしましょう。
「本日カサの忘れ物が多くなっております」とはいいますが、実際にカサの忘れ物の数をその都度、調査しているとは思えません(ほんとうに調査していたらゴメンナサイですが)。
しかしながら、カサの忘れ物を防止することを目的に、このようなアナウンスを流していることは、まあ間違いないでしょう。
一方で、「このアナウンスが流れてきても、単なる雑音で、いや雑音であることすら認識しない」という人がほとんどではないか、という想像も成り立ちます。
となると、鉄道会社の意図はこの際おいておくとして、「本日カサの忘れ物が多くなっております」というアナウンスによって、もたらされるものとは何か。
それは、忘れている何かを思い出させること。
忘れている何かとは、「自分は何かを忘れてる」という事実そのもの。

 吉野家で牛丼を食べながら、ほかのお客さんがオーダーするのを見ていると、「いつものメニュー」が決まっているらしい人が多い。私の隣にすわった熟年男性は、カウンターにすわるなりスポーツ新聞を広げながら、メニューなどチラリとも見ずに「大盛り、味噌汁」と言う。目は新聞に釘付けなのに、右手はカウンターの前の冷蔵ケースにのびて、おしんこの小皿をとりだしている。
[中略]
 人間というものは、いったん習慣がつくと、なかなかやめられないようにできているらしい。コーヒーに砂糖を二杯入れる人は、一杯だけにすると、物足りなく思う。お風呂にいれる習慣がつくと、まっさらなお湯のお風呂がつまらなく感じられる。新聞のすみにある四コマ漫画が休載になると、なんとなく物足りなく思う。
襟野未矢『依存症の女たち』講談社文庫

自分の置かれている状況や生活習慣というのは、なにか特別なきっかけがなければ、意識することはありません。
しかし、それが原因でみずからの健康や幸福を壊したり、あるいは社会レベルの害悪をもたらすということがありそうです。
なにか特別なきっかけ──。
じつはそれこそが「本日カサの忘れ物が多くなっております」というアナウンスなのではないか。
つまり、忘れ物はカサではなく、今は忘れているけど、思い出さなければ、気づかなければ、見直さなければならない「何か」なのです。

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