今週の大きなトピックのひとつが「オウム裁判すべて終結」でしょう。
マスコミなどでは「裁判は終結したが謎は残る」という論調が主流のような印象があります。
たしかに、一理あります。〈謎〉は残っているでしょう。
一連の事件の〈謎〉は、究極的には〈人間〉や〈社会〉という存在そのものが持つ〈謎〉であって、永久に解決しないものであるような気がします。
「結局わからなかった。謎! 謎!謎!」と強調することは、結局は問題を深く掘り下げることを放棄し、思考停止に陥り、現実逃避し、現状を追認する態度をとることです。
だから、「何がわからなかったか」ではなく、「何がわかったか」を検証するほうが、意義のある行為といえましょう。
では「わかったこと」とは何でしょうか。
そのひとつが、「犯人を決めつけてはいけない」ということでしょう。
松本サリン事件では、被害者のひとりであり通報者でもあった人が犯人扱いされました。
当時、私はマスコミの研究をしていて、新聞や雑誌を詳細に調べていたのですが、その書きようはとてつもなく酷いものでした。
正直、それまではマスコミで報道されることは、(不可抗力による誤りなどはあるにしても)それなりに信用できるものだと思っていました。
でも、マスコミの報道にうずまいていたのは、〈悪意〉でした。
人には、他人を憎み排除しようとする本能があり、マスコミの報道はそれを体現していただけなのかもしれません。
つまり、マスコミの報道はわれわれの心を映し出す〈鏡〉のようなものであると言えます。
ここでようやく、西村寿行『去りなんいざ狂人の国を』についてです。
この作品は、地下鉄に毒ガスをまくという話で、いやでも地下鉄サリン事件を想起せざるを得ないのですが、もちろん事件をヒントに書かれたものではなく、小説の発表のほうがずっと先です(1977年に雑誌掲載)。
では、事件のほうがこの小説をヒントにしているのかといえば、もちろん詳細は不明ですが、もし犯人たちが小説を読んでいたとしたら、“もっとうまくやっていただろう”と想像することができ、やはり違うのではないかという気がします。
ほかの西村作品と同様に、毒ガスによって多数の死者が出る場面は、推理小説の「殺人事件」の大規模版であって、本質はハードボイルド・アクションです。つまり、主人公の刑事たちがいかに犯人たちを追いつめていくか(実際は刑事たちが追いつめられていくわけですが)という話であるわけです。
言いかたをかえれば「犯人を追いつめたい。犯人を憎みたい」という欲求こそが、この物語を牽引するエッセンスであるわけです。
ここで「何がわかったか」の話に戻りますが、マスコミは「犯人を追いつめたい。犯人を憎たい」というわれわれの欲求に応えてはならない、ということです。
その役割はこの『去りなんいざ狂人の国を』のようなフィクションが負うべきなのです。
“現実は小説より奇なり”という言葉がありますが、『去りなんいざ狂人の国を』の発表当時は「こんなことは実際には起こり得ない」という前提があるからフィクションとしての醍醐味が味わえました。でも、事件は現実に起こってしまった。
だから、もう小説などのフィクションがその役目を負えなくなってしまった、という考えもあるかもしれません。
しかし、松本サリン事件でわれわれが目撃したように、それは人権(このブログではFHR)侵害に直結し、許容することはできません。
そして、〈真実〉を究明するという、ジャーナリズムの機能すらも損なわれるでしょう。
われわれには、「他人を憎み排除しようとする本能」がある──。
現実がフィクションを凌駕した今日でも、それを自覚するため素材として『去りなんいざ狂人の国を』は社会的な存在価値を持っていると思います。
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