『サイレン ニュートランスレーション』(ゲーム)──傑作ホラーゲームの背景に見え隠れする“さびしさ”

傑作──。これはまちがいない。

舞台となる「羽生蛇村」の〈空気感〉、プレイヤーや敵キャラクターの〈存在感〉の表現に、あらためてプレイステーション3の性能の高さを見ることができる。

海外ドラマを観ているかのような趣向も秀逸。

恐怖の舞台に実際に入り込んでしまったような感覚は、映画や小説では味わえないゲームならではの魅力だ。

ゲームとして欠点らしい欠点はとくに見つからない。

だから、ふつうのゲームであれば、十分な満足感が得られるはずだ。ふつうのゲームであれば、だ。

ものが「サイレン」シリーズであるがゆえに、妙な〈不完全燃焼〉な感じ、〈寂寞感〉のようなものを覚えてしまうのも事実だ。

クリアするまでの時間が短いからか? もちろん、それもあるだろう。

しかし、プレイ時間と満足感は比例するわけではない。プレイ時間の短さは問題の本質ではない。

シリーズ第1作目は、アクションゲームに見せかけながら(アクションの要素を含みながら)、その実態はパズルゲームであった。

“目と耳から血を流した村人”がわけもなく襲ってくるという“ホラー”な部分は、単なる飾りであって、シリーズ第1作目は「パズルを解く」ことがゲームとしての神髄であった。パズルのピースが「目と耳から血を流した村人」(=「屍人」)であったにすぎない。

このパズルを解くには、プレイヤーがみずからの論理力や想像力を総動員して試行錯誤を繰り返さなければならない。何度も、いや何十回、何百回とゲームオーバーを繰り返さなければ、正解にはたどりつけないのだ。

でも、ゲームであるからには、必ず正解はある。盤石に見える「屍人」の守りの中には、制作者によって必ず〈隙〉が作られている。まさに制作者とプレイヤーの知恵比べ。

これが両者の真剣勝負である以上、制作者が温かい手を差し伸べることはない。制作者とプレイヤーのこの〈距離感〉こそが、ホラーゲームとしての〈恐怖感〉だったのである。

『ニュートランスレーション』の制作者は、子どもの世話を焼く母親のように“優しい”。だから、ゲームオーバーになることはほとんどない。クリアまでの時間も短くなる。

この“優しさ”がホラーとしての「恐怖感」、ひいてはゲームをクリアした際の「満足感」を殺いでいるのは誰の目にも明らかだ。

ライオンが崖から我が子を突き落とすように、プレイヤーに不必要な慈悲の心を見せないこと。これが優れたホラーゲームを作る上でもっとも重要。それを制作者が知らないはずはない。

本作のタイトルに『3』を付けていないのは、正統な続編でないことを制作者が自覚しているからだ。

では、なぜ今回は、絶望しかないはずの「羽生蛇村」で、われわれはナイチンゲールのような“慈愛の精神”に触れることになってしまったのか。

その原因はゲーム文化の未成熟さにある──。

当ブログではこんな仰々しい結論を出してみた。

第1作目は、「難しすぎて楽しめない」という批判があったという。だから、第2作目と本作は難易度を下げたわけだ。

自分たちの作るゲームをより多くの人々に楽しんでほしいと考えるのは、クリエーターとしても、そして利潤を追求するメーカーとして当然だ。それゆえ「もっとたくさんの人が楽しめるように簡単にしよう」と判断したとしても、なんら非難には値しない。

ただ、プレイヤーへの敷居は低くなるが(結果、より売れることになるかもしれないが)、ホラーとしての純度は下がってしまう。

どこでそのバランスをとるか。制作者側が下さねばならない判断は非常にデリケートだ。

もっとゲーム文化が成熟していれば──。もっと多くの人がこのゲームの持つ〈難しさ〉を楽しむことができたなら──。

「リンクナビゲーター」システムに象徴される、『サイレン』シリーズが持つもっとも「ゲーム」らしい要素が削られることもなかったであろう。

難易度も踏襲され、「恐怖感」「絶望感」もそのまま再現されていたはずだ。

しかし、『サイレン』第1作目のような“高度なホラー”を楽しむには、ほとんどのプレイヤーが、いや「ゲーム文化」そのものが幼すぎた。

『ニュートランスレーション』をクリアした後に、さびしさを覚えるのは、プレイ時間が短かったからでも、簡単だったからでも、怖くなかったからでもない。

「ゲームという文化の未成熟さ」が見えるから。そこに原因があったのだ。

そして、その背景には、すぐに「正解」を求めようとする現代人の〈強迫観念〉、テレビ、雑誌、インターネットに「答え」があふれかえる〈高度情報化社会〉など、複雑な要素が絡まり合っている。

単純にゲームの攻略法を提示することが、問題の解決になるわけではない(こと『サイレン』に関しては逆効果になる)。

当ブログがゲーム文化の発展に寄与するために何ができるか──などと大仰にかまえるつもりはない。でも「なんとかしなければ」という使命感を抱かざるを得ないところに、本作の“光と影”がある。

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