『笑の大学』(映画)──舞台と映画の本質的な違いとは?

原作である舞台版をテレビで観て、この映画版をDVDを観る、というのは愚の骨頂であろう、『笑の大学』という作品関しては。

そんな「愚の骨頂」をやらかした者が拙い想像力を駆使して、原作(舞台)とこの作品(映画)の違いを考えると、こうだ。

『笑の大学』という物語は、密室の中で行われる2人だけのやりとりを描いており、当然ながら一方のセリフはもう一方の人物に向かって発せられる。しかし、これは表面上のことであって、舞台版の場合、それぞれのセリフは実は観客に向かって語られていると考えることができるのだ。

「今まで一度も笑ったことがない」という検閲官のような人間は現実には稀だろうから、観客がなんとなく感情移入するのは(観客の立場に近いのは)、劇作家ということになる。劇作家が検閲官に行う「突っ込み」は、観客が検閲官に行うそれであるわけだ。

逆に、検閲官が台本に対して行う「ダメ出し」も、目の前の劇作家ではなく、実は観客に聞かせている(密室でありながら、あたかも第三者の聞き手を想定しているかのように振る舞っている)。

さて、ここで「拙い想像力」を駆使して思うのは、このような観客と登場人物との同一化は、映画では難しいのではないか、ということだ。もちろん、部屋の中でテレビやDVDを観る場合は、もっと難しいということになるのだが。

舞台か映画か、という表現形式を別にすれば、『笑の大学』という物語そのものは、非常に完成度の高い傑作である。だから、物語それ自体を楽しむならば、映画やDVDでも良いということになる。舞台版は、西村雅彦、近藤芳正という名優が演じているが、映画版の役所広司、稲垣吾朗も負けていない点は特筆に値すると思う。星護の演出も工夫が施され、文句はない。つまり、映画版の出来栄えは決して悪いものではない。

「よくもこれを映像化したなあ」と感心すると同時に、「やっぱり舞台も見たいなあ」と思ってしまうところが、『笑の大学』の複雑なところだ。

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